猫走る 餌やり人と ペース取り 命の綱を 目一杯見て

 

  唐突ながら、表現の自由の話。

  「表現の自由」という日本語はこなれていないかもしれないが、大事なものだとの認識は一般的なようだ。ただこれが一番大事だと言い切った例は一つを除いては知らない。

 ある教団が第一の教えにこれを取り上げた。さぞかし斬新なことであったろう。

 この教団のトップが誉めたという二つのエピソードを聞いたことがある。一つはその方が風呂に入ろうとした時、お付きの人が湯に桜の花びらを浮かせたらしい。もう一つはその方にステーキを供した際、しっかり火は通っていたのに肉の色は赤いままだった。

 前の方の例はともかく、後の方を聞いた時まず思ったのは、もったいない。

 ところで表現の自由は、人権の一つであるから、当然想定される抑圧者は「あれ」になるのだが、表現者から見て対外的な問題ではなく、むしろ対内的な問題になるのではないか、というのが視点かな。


 さて1首。平磯緑地には数多くの猫がいて、そして数多くの支援者がいる。支援者と猫との間にどんな関係があるのかは知らない。たとえば、特定の支援者は特定の猫だけを支援するのかとか、森が大嵐になった時、自宅に引き取ろうかと考えないのかとか。しかし個々の猫が個々の支援者を認識していることは間違いがない。また長年見ていると気のつくことがある。子猫がいないのである。然るべき対応がなされているのが想像される。




 

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