人が去り 人から去りて から景色 虚空に向かい 悪罵浴びせる






  周りに認知症傾向の人が増えている。認知症は有無が問題なのではなく、その程度が問題です。

 2、3年から数日などの短期の期間の記憶力が極端に減少した人、徘徊傾向のある人、怒りっぽくなった人、物の言いようが丁寧だったのにぞんざいになった人などなど。

 その中でも注意をしておく基準があると友人の医者が次のように言っていた。

 「今までいい交友関係を維持してきた友人と『複数』断絶したら、認知症の進行ステージが上がったと理解すべきだ。」

 今までいい交友関係を断絶させるには、それなりの真っ当な理由があると、当事者は大概そのように言い張るのが常。確かにそれなりの理由は確かにあるのであろう。

 しかし、そうだからといって、じゃ今までそんな断絶に値するような真っ当な理由が存在したことはなかったのか、と言いたいわけだろう。

 数十年に渡る長い期間の間には文字通り色々なことがあり、交友が途切れるような可能性のあることも珍しくはない。それでも交友は続いてきた。それはいわば壊れかけた関係が修復されたから結果的に交友が続いてことになったのだ。

 このように考えてくると、つまるところ交友関係が途切れた時の修復力がなくなったのが、交友関係断絶の原因であり、その修復力の減少・消滅こそが認知症の進行ステージの上昇の証左ということになる。そして修復力の減少・消滅は、他人に対する理解の不足、宥恕の意志の欠如、堪え性の減少・消滅などなどに起因する。


 そんなわけでじっくり周りを見回してみることになる。これが結構恐ろしい。恐ろしいことは端折って、次に。

 「から景色」は、人がいなくなって空虚で虚しい景色を表現している。一般に使用するか否かは、知らない。自ら使っていて違和感はない。ところで「空景色」と書けば、「そら」景色と読み取るのが一般的のようで、意味が異なる。そこでひらがなとした。

 自分自身の世界では、事実を事実として表現し得ているわけで、和歌としてはここまででいいのだが、そうもいかないらしい。締めないといけないらしいのだ。

 ところで事実として、ランニングしながら思わずチクショーと叫んでいることが多い。叫ぶ対象について、多分具体的な対象物や事象が判然としていないのが通例だと思う。それをここに借用することにする。これが適切かどうかは、後日考えよう。

 さてこれを「悪態を吐く」と表現すると、やや違うようなのだ。この表現は、一般的には本人の前で悪口を言うふうに理解するらしい。ここでは使えないので、そこで最終句の「悪罵を浴びせる」を探してきたのだが、いかにも収まりが悪い。後日検討することになろう。

 



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