海凪いで 日差しも淡い 昼下がり 丸い綿毛 見つけては蹴り

 

 昨夜「シンドラーのリスト」を観た。人々が呆気なく殺され、当たり前の世界に、つい思いがウクライナに及んでしまう。

 つくづくナチスの蛮行に心が沈む。

 ところで前から気にはなっていたことがある。ナチスを扱った映画を見ていると、恣意的にあるいは些細な理由によって、人が撃ち殺されるシーンが頻繁に出てくる。

 私の見たところ、殺戮者は将校に多いように見える。殺戮は将校に与えられた権限なのだろううか。兵隊が将校の命令なしに殺害に及んでいるシーンはあまり見たことがないように思われる。

 ユダヤ人は人間以下だとしている一方で、軍内においても将校未満は考えること決断することを許されていないのではないだろうか。

 映画は最終場面で、シンドラーの後悔が語られる。目の前の車を指して、「この車でもう二人救えたかもしれない」、ナチスバッジを示して「これでもう何人か救えたかもしれない。」従前からもっとも違和感を感じるシーンだ。批判を許さない状況下におけるシーン。

 もう一つ考えさせられるシーン。30人くらいの被収容者の集団で、20人以上が次々に撃ち殺されるシーン。何故素手でもいいから反撃に出ないのだろう。

何故600万人もの人が反撃もせずに殺されたのか。

 ヒントになるシーンもあった。ある女性がアウシュビッツの話を始める。今からすると真実なのだが、その場では、「私たちは貴重な労働力だから殺すわけない」「アウシュビッツに行ったら戻れないはずから、そんな話は出鱈目だ。」という意見が多くを占め、アウシュビッツの話はフェイクとされてしまう。辛ければ辛いほど人間は真実を認めたがらない。

 銃口に押さえつけられる一方のユダヤ人だが、唯一感情を爆発させたシーンがあった。子供たちが集団で何処へかトラック輸送されるシーンだ。これ以外は何をされても・・・。

 施設を開放しにやってきたソ連将校の言葉が印象的だ。彼らがユダヤ人と聞いて、「これから東には行くな。君らは嫌われてるからな。西・・そこでも嫌われてるからな。」

 シンドラーの人柄といい、救出の経緯といい、史実はかなり複雑であったろうと想像され、それを一本の映画にまとめるのはかなりの労力を要したものを見受けられる。

 







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