夏車内 ももひけらかす 若き女の 自然さにふと 昔の日想う

 


 眠るネムノキ

 

目覚めたネムノキ 
     

    「カラマーゾフの兄弟」上中下のうち中巻まで読み進んだ。なぜか今までと異なり落ち着いて読める。今まではせっつかれるような、この名前は誰だっけと言った瑣末なことに囚われすぎていた。その上で一つ気にになったことを書いておこう。「白痴」などの作品でも同様なのだが、延々と続く神学論争についてだ。作者がとにかく好きなのだろうということはわかる。それはそれとして、この問題についていけないのなら彼の作品は理解できないのではという不安が常に存在する。これについては持ち越しとしたい。
 今から取り上げる一つとは?神学論争つまり神は存在するのかしないのかという問題の前に、神とは何かについて定義付けないといけないのではと思うわけだ。大別すると二つだ。
 一つは全知全能の創造主たる神だ。世の中のあらゆることを知り、それぞれについて何らかの判断をし、何らかの行動をとる。祈りの対象であり、語られる対象であり、時には非難の対象でもある。ある意味では人間的な存在だ。怒り、悲しみ、愛し、罰し、許し、何でもありだ。
 もう一つは創造主たる神だ。つまりこの世界を創った。それは複雑にして精緻な造形物だ。そしてそれだけだ。関与はそれだけだ。あとは作られたものが自律的に動いているだけ。今更祈られても神としては、それは知りませんと言わざるを得ない。
 ドストエフスキーは、全知全能の創造主たる神しか頭にないのではないか。単なる創造主としての神について考えが及んでいないのではないか?

   

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