陽の強く マダラ模様の 森の径 日陰探して 木の熱き思う

 




 「カラマーゾフの兄弟」をこんなにじっくり読んだのは初めてだ。以前は筋をひたすら追っていた感があった。今回は些事にこだわらずじっくり読めてよかった。世の中には読書会なるものがあって、読後感を述べ合うようだ。この作品についていえば、感想が多岐に渡り、生半可な行事役では紛糾必至であろう。それにしても基本的にはとても楽しくなりそうだ。作品自体は、親子の葛藤というのがキーワードみたいだが、そうかなーと思う。むしろ正確にいえば、男親論と言ったところではなかろうか。一方敢えて言えば母親論みたいな要素はほとんどない、と言える。あえて一言言えば、幸せで穏やかな家庭生活には、きっと男親論も母親論も盛り上がらないだろう。

 男親が殺される。読者には犯人が明かされている。ポアロ調ではなく、コロンボ調というわけだ。さて話としては、状況証拠的にはかなり黒い長男が拘束され、起訴され、裁判となる。結論としては、陪審員によって有罪とされることになる。まあ誤審ということになるが、そんなことは作者にとって大したことではなさそうだ。ならば誤審判決に至る過程を縷々表現することが読者に何を訴えることになるのであろうか。いくらでも理屈は生まれてはきそうである。真実は法廷には易々とは反映されないとか、善意にして極めて優秀な人たちが全精力をかけて事態解明にあたっても間違った結論が導かれるとか、そうでない一般の裁判では誤審は頻繁に生じそうとか、あなたたちが信じている真実とは所詮そのようなものに過ぎないとか、まあ冷笑的な空気がないとはいえない。

 それにしてもエピローグからすると、なんと言ってもやはり先に希望を見出すということになりそうではある。

 ただこの作品は未完で、作者の死によって作業が途切れたと聞いたことがあり、現に作者は現在の原稿を書き上げた直後亡くなっている。つまり構想的にはもっと続けるつもりだったが、体調的にそれが難しくなり、急遽エピローグで強引に締めを作った、という感じ。わざわざ記載するほどのこともなく有名な話かもしれない。

 著者の宗教観についていけない人(その宗教論争に意味がないと感じている人)は、読んでも仕方がないのか否かについては、否だろう。元々著者と全てを共有しなければその作品を理解できないとしたら随分と窮屈なことになりそう。

 ウクライナのロシア侵攻が頭にあって、改めて読むきっかけとなった。ロシア社会ってどんな社会?という疑問だ。自由平等博愛を謳歌したフランスは、人種差別がひどいとは、自らの経験上も、留学していた人からもよく聞いていた。一方、暴虐で残虐イメージの強いロシア人は、ほんの少し垣間見た感じだと本当に素朴で穏やか。人種差別もまずないと聞いている。でも作者は、やばい方のイメージを持っていたような気がする。だからそこに純粋無垢の本作のアリョーシャや「白痴」のムイシュキンを登場させ、その社会の究明を計った。

 読み応えあり。

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