トレイに 餌溢れ 野良猫中座 餌やりたがり 引きも切らず

 


    

 第一話

 中年の男性の話。同年輩の女性と婚約した。その女性に子息がいて、主に教育費ということで出費を重ねた。贈与するとも貸与するとも明示はなかった。何年か経って婚約は解消され、一方その中年男性は困窮に陥った。そこで女性に出捐した金銭の返還を求めた。

 第二話

 裕福な男性は、やや知能的に発達の遅れた男性の教育費を援助した。その男性は貧窮であったので、貸与は考えられなかった。後年その男性は予期しない相続財産を得て、巨万の富を得た。一方裕福な男性は死去した。その男性の息子と称する人物が、相続財産を得た男性に幾らかの金銭を寄越せと要求した。その息子は困窮していたのだが、法的にはともかく道義的には支払うべきだろうと主張した。


 第一話について言えば、婚約が履行されることを前提に出捐したものであって、婚約が解消された以上、返還すべきだという理屈になろうか。結納金の様な取り扱いだ。現実には子息は高貴な方と婚姻し、この金銭トラブルは大きな話題となった。どう考えるべきなのだろうか。男性のお金で然るべき教育を受け得たわけで、今更感は拭えないものの、男性の困窮を考えるならば、返す方向で解決すべき問題であろう。子息の手になる反論書というのがあるが、分量が多いだけで、説得力はなさそう。法律家としての先行きが怪しい。

 第二話についていえば、請求した子息は出捐した男性の実の息子ではなかった。本来は箸にも棒にもかからない話となる。しかし、ドストエフスキーは、「白痴」の中でこの子息への支払いを容認する。

 だから第一話の問題についても、ドストエフスキーは支払いを正解とするだろう、と思った。ただしいずれも理屈は不明。


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