肝腎な 時に逃げるは 悪癖か 悔いても悔いても やはり治らず

 

           アキグミの甘い香り漂う・平磯緑地・25日

 漱石著「それから」30歳の無職の男。親からの仕送りで生活する。秘書並みの書生がいて、飯炊きの老女がいる。この男が悉く親や兄弟の言うことを聞かない。そのくせ自分の友人が金に困ると、なんとか融通してくれないかと頼み込む。自分の面倒も見れず、さらに友人の面倒まで見てくれとは、まともな大人の発想とは思えない。

 この男が友人の妻に惚れる。そして告白する。この機に至り親や兄弟は匙を投げ、最後男は狂う。

 これだけのことなのに、ああでもないこうでもないと筆は進んでいく。こんな話を新聞小説で読まされたら読者も堪ったものではないか。

 ところで明治の世ならばこそ最後男は狂うが、現代においてはいかがなものか。男と妻にだけ焦点を当てればそれなりにお話としては筋が通る。

 読んでいてずっと頭から離れなかったのは、親からの援助を止められたら働いたこともないこの主人公はどうするつもりなのかという心配だ。主人公はその辺り能天気だ。全く理解できない。子供が30歳になった時、家を出て自分で暮らしなさいと諭した我が身からすると、親の対応にも納得がいかない。要は30歳にもなって自ら立っていけないような人間にああでもないこうでもないと言う屁理屈を言わせることを許せるのかと言うことだ。

 愚作と言いたい。

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