紀州見え 難波が見えて 淡路見え 空港二つ 空に爆音
「何のために生きるのか?」「何のために生まれてきたのか?」などという質問をしたい頃があって、それがそれで結構自分も大人になったと自己認識している証かもしれない。さてその答えと称するものはといえば、曖昧模糊としていて残念ながら印象に残ったものはない。
こういうことを思い起こすというのは、自分自身もこの演題にそう縁がなくはなかったのであろう。
ところで今回この答えを用意した。従前の経緯からすれば単純明快なものでなければならないだろう。
生命は偶然に生まれ、死を必然とする。これが答えだ。だから何のために生きるか、その目的は何かを考える余地がない。考えて悩んでいる人に、考える余地がないとは、いいも言ったり至極だ。
「それじゃ、人を殺してもいいのか?」「自殺してもいいのか?」と聞く人がいる。これらの問いが、先の定義と如何様につながるのかは全く不鮮明ではあるが、それら一応置いておこう。
まず自殺だが、生命は神が作創造したもので、従って神のものだから、人間が勝手に始末する事は罪となる。このようなストーリーは成立しない。なぜなら生命は神が想像したものではないから。
人を殺してもいいか?という命題は、本論とは全く関係がない。人は何の定めも目的も思惑もなく生じたに過ぎないから。
ただ付言すれば、この共同体の中でうまく生き延びたいのであれば、その掟には従うべきだろう。つまり人を殺してはいけないという掟があるから、人を殺してはいけない。それだけで、それ以上の理念は全く存在しない。場合によっては共同体の掟で、例えば、人の物は自分の物と決められたら、窃盗の罪はなくなる。罪は無くなっても、自分としては後ろめたいとかいう心情は存在しない。つまり掟以上の縛りはないのである。
この考え方からいけば、生きる目的は自らが食べていくためであり、自らが着飾るためであり、自らが安逸な住居を確保するためである。本来はそれ以外にはない。
「世界平和は?貧しい人たちの救済は?感染症の撲滅は?」やりたいと思う人がやればよろしい。なぜなら彼はそうすることで精神的な満足という見返りに受け取るから。一方自分としては気が進まないが、そうすべきだから、そうするように努める、という考えも存在するが、どこから「そうすべき」という考えが生まれたのかじっくりと考えた方がいい。
世の中をざっと俯瞰するに、いろいろなレベルの話が複雑に絡み合って混在している。いわゆる人生論と称するものもそうだ。悩みたい人は適度に色々つまみ食いできるわけだ。
ところで「生命は偶然に生まれた」じゃ、身も蓋もないという向きも少なくない。大不幸が起こるまでただ怯えているより、何かに縋って安穏を得たいという考えもある。フラボノ効果だと思われるが無視はできない。
コメント
コメントを投稿