会話

 

 

  日常的に何気なく行われている会話とははたして何だろうか。

 会話とは、互いにストリーを交わすこと。もちろん一方的に言い放しというわけにはいかない。時たま老人が長々と「一人で」喋り続けている光景に出くわし面食らうことがある。傍目には彼以外に認識できないが、彼には誰かが見えているかも知れない。

 会話において相手に認識してもらう、同意してもらうという欲求があることは否定できない。これは会話者お互いにとってそうなのだが、この「認識」や「同意」はその場限りのものではなく、一定の期間持続するものとして捉えられている。こう書くと、読んでいて違和感を感じるという人が出てくるかも知れない。

 有体に言えばこうだ。認知症を患っている人との会話を想定している。ご存知のように認知症を患っている人は短期記憶に障害がある。つい数十分前に話したことも記憶に残らないことがある。どんどん記憶が消失していくことになる。そんな人との会話は意味があるのかという疑問がある。

 相手にはほとんど記憶としては何も残らない場合、そんな時会話者間においては、会話する、話すということにどんな意味があるのだろうか。

 ギリシャの哲学者はいろいろな見方をしたという。「飛んでいる矢は、止まっている」どんな意味だったろうか?飛んでいる矢も、一瞬一瞬切り取れば止まっているというようなことだったろうか。

 あっという間に消え去る記憶とそれなりに永続する記憶。両者には程度の差しかないように思える。

 会話は、記憶に残ろうと消え去ろうと、本来の意義を持っている、ということになろうか。


       



   遠慮がち チッチと草叢(くさむら) 虫模様 短き季節 共に惜しみつつ

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