農と狩

 

 最近は「農」と「狩」を基準に考えることが多い。「農」とは農耕のことであり、「狩」とは狩猟・採取のことである。人類はそのほとんどの期間を「狩」で暮らしてきた。「農」は高々一万年ちょっとにすぎない。

 最近人口の東京集中が凄まじいが、「農」はとにかく群れたがる。数が力だと思っている。多くでいれば安心だとも思っている。大勢いれば治山も治水もうまくいくと考えている。

 「狩」はどんどん人から離れていく。人のいないところへいないところへと拡散していく。当然ではある。人が多いと獲物は少なくなる。動物にしても木の実にしても。人との接触を避けるところに文化・文明は育たない。

 リスクに弱いのはどっちだ。集合していれば感染症はあっという間に蔓延する。一方「狩」の方は通常小さなグループで独立している。ある集団が感染症で全滅しても、他の集団が生き残る。

 なぜこんなことを考えるようになったのだろうか。答えの見つかりそうもない問題が増えてきたかもしれない。たとえば認知症の親を抱えて二進も三進も行かなくなっている人はどう考えたらいいのだろう。「政府がなんとかしろよ!」どうしようもなければ持っていく先はいつも政府であり、行政だ。そしてそれが打出の小槌でないことはみんな気がついているはずだ。

 もっと基本に戻って考える必要がある。


      蝉声の 勢いに先ず 気圧されて 聞き馴染むうち ピュア拡がる



コメント

このブログの人気の投稿

挨拶ハガキ

捨てるに捨てられない