アメリカ渡りの新興宗教の仕事をしていた時、ある信者がしきりと、「鰯の頭も信心から」と言いますからね、と話していた。元々空気の読めない人だったけれど、その時の周りの雰囲気も決して友好的といったものではなかった。 当時複数の新興宗教団体と仕事上付き合っていたが、概ね、会員は宗教上の話題について、決められた話題以外について話すのを苦手としていた。馴染みのない話題だとそれが教義上どう取り扱われていたかわからないからだろう。さてささやかな経験から言うと、洗脳されていると意識した信者はいなかった。本音で話す時に、メジャーな宗教はやはりすごいと言ったようなこともあった。それなら変わればよさそうだが、従前の流れでそうもいかない、と言った風情なのだ。どこか日本的なしがらみを感じるのだ。 中学時代の愛読書にジョン・ガンサーのインサイド・ヨーロッパ・ツディというのがある。学術的ではなかったが、やたらと各国の事情に通じていて、何度も読み続けていた。その中にこんな記述があった。「イタリアはカソリック信者が90%後半を占めているが、ヨーロッパでは一番共産党が強い。なぜでしょうか?」答えは簡単。一生のうちで一度も教会に行かない人が半数以上。 結局流れ着く先は宗教のない世界になっていた。 人間の弱さを知れば知るほど、宗教を持っている方が得だと実感する。でもそんな功利的な思考は宗教には失礼だ、というくらいの尊敬の念は宗教に持っている。