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8月, 2022の投稿を表示しています

海峡は 見渡す限り 霧一色 行き交う船は 何処潜むや

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   大阪に大雨警報が発令されている。遥か南の海に台風がある様だが、それの関係だろうか。

蝉途絶え 音なき世界 昼の森 名残の熱気 あちこちに散る

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   樹木が呆気なく切られていくのによく遭遇する様に思う。ポルトバザールのタブノキ、平磯緑地のムクゲや松の木そしてレバンテ公園のコブシだ。平磯緑地は体育館の、コブシは図書館の各々建築のためだ。なぜコンクリの塊のために樹木を蔑ろにするのか。わからないのは、タブノキだ。切られた理由がわからない。   

明日に死す 死刑囚怯え その先の 我ら恐れず 希望に麻痺か

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     幼い頃、年いった人は死が近づき、さぞや怖いことだろうなと想像した。その頃死はとても怖いものだった。  さて現実はどうだろう。実はあまり怖くは思っていません。というのは多分不正確なのだろう。余命の宣告を受けて、さあ残された時をいかに過ごそうかと考えている人は、違う感慨を持っているかもしれない。  ドストエフスキーによれば、一番希望を意識するのは死刑囚だそうだ。刑の執行のその時まで恩赦の知らせに希望を託す。  

丸々と 栄養十分 青虫を 器用に啄む ムクドリ忙し

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                    コブシ  久しぶりにエアコンなしに過ごせた。           

秋風に 乗る蝉の声 店仕舞い また一年(ひととせ)の 空白地上

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 ここのところ朝夕の風が涼しい。今年の夏は湿っぽさが尋常ではなく、嘆くことさえ忘れるほどであった。リビングの椅子の脚の毛糸カバーが幾度離れたか、思い出すのも腹立たしい。  

大雨の 報また外れ 小雨さみし 霞む空気 呼び込む秋

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                                                                    ムクゲ  夏に見る花は、ムクゲ、百日紅、アベリア、ヒメジオン、キョウチクトウ、エダウチヤマモモソウ。

ひたすらに 幻想追いて 有無の境 見えなくなりぬ 永遠に消えゆく

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                   ムクゲ    思い浮かんだ歌は、書き留めておかないと消え去ってしまう。そこで多くの場合利用するのがスマホだ。「メモ」というアプリを利用している。ところがたまに寝ている間に、つまり覚醒していない時に浮かぶ一首もある。この種は体を成していないことが多いが、たまに復元可能な時もある。こんな時早くしないと忘れてしまうと案じる自分も存在する。多元的な意識が存在するのか興味は尽きない。

咽せる香に 思わず背け 顰める顔 草を断ちて 生を断つ業

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                  アキノノゲシ       3年ほど前に高校時代の友人が亡くなったが、その前ご家族から危篤の報が入り、急遽東京に赴いたことがあった。  その道中もう一人の友人に、危篤の知らせをメールで送った。その何年か前に、一緒に旅行したことがあったからだ。  ところがそのメールには何の反応もなかった。  ごく最近その友人と話す機会があった。「あの時メールも貰ってましたね。」と返ってきた。  近頃同年配の友人から受ける共通の印象は、反応の希薄さだ。

日本中の 爺婆連が 心配す 大谷君の 夏変調

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                  ワルナスビ                     生き急いでいる様な大谷君。発表によればウイルス性胃腸炎。常識的に考えれば、疲れが溜まっている様だから、少しのんびりしたらといってあげたい。  

掃除役 蟻の活躍 蝉骸(セミむくろ) 空向き転ぶ 大往生

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   終日極めて蒸し暑い日であった。それでも炎天下散歩している人は、ほぼ100パーセント老人たちだ。暑さのセンサーが鈍っているかもしれない。    

リモートで 息子夫婦と ランチタイム 近づく秋の 話題盛り上がる

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    神戸北野にビアンキッシマというイタメシの名店があり、なくなって7、8年になる。そこのシェフが漏らしていた話から、開店するまでどこで修行していたか、話題となった。   出てきた名前は、アッピアとキャンティだ。半調理状態の食材を客に選ばせる手法が共通するらしい。   単に懐かしがっている段階から、一歩前進したことになる。

雨の日に 一人佇む コート見て 長き年月 囚われし像

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   今日は久しぶりにまとまった雨が降りそうだ。大雨だ大雨だという掛け声ばかりで、一向にその気配がない。このままだと「大雨少年」になってしまう。

盛り過ぎ 落ち着き戻す 夏の森 名残の蝉の 整いし調べ

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   ようやく森もしっとりと落ち着いてきた。カンカンに照った陽も懐かしい。もう少しで蝉の鳴き声ともお別れだ。しばらくは台風や大雨と付き合わねばならない。

強面の 鱧を湯引けば 身はホワホワ 梅干しのタレ 滋味を引き出す

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   この頃のことといえば、若い頃、鱧鍋であった。豆腐に玉ねぎに鱧。シンプルの極みではあったが、いかに空調が入っていようが、暑いものは暑い。なぜ盆に鱧を食することになったのか、経緯は忘れた。ただそごうにても盆には鱧が値上がりしていた。同好の士のありせば。

出来不出来 問うことなしに 在りのまま 言葉以前を 言葉の形に

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    想いは言葉に置き換えた時から変質し始める。しかし言葉に置き換えなければ、他人にも、そして時の経過した自分にも、伝えることができない。   思いの寿命は短い。それをいかに的確に表現するかは、至難の業であり、永遠の課題である。

雨降りて 蝉声途絶え 静寂来る 猫樹に寄り添い 悠久想う

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     久しぶりの雨が来そうだ。

遡(さかのぼ)る 30万代 ディーエヌエー 飢えで死にかけ 哀怒に泣いて

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                                   ノウゼンカズラ  雨のない日が続いている。木々も見るからに萎れている。散水はされている様だが、降雨に比べて量的には問題にならないだろう。

噴き出せば 尽きぬ泉の如く 次から次 取り戻したい 日々の数々

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    毎日絵人気を認めていた頃は、1日一枚絵らしきものを描かねば落ち着かなかったものだが、このブログとともに絵人気が自然消滅してしまうと、絵を描く習慣も縁遠くなってしまった。ルーティンの中にいるのは心落ち着くのだが、往々にしてその虜になっていることもある。それは単なる僕に過ぎず、決して主人ではない。

呼び起こせ 潜める想い 探し当て 真正面から 的を射狙い

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               少し暑さも和らいだ日でありました。

押し寄せる 圧倒的な 圧を受け 包み込むかの 蝉声嵐

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  灼熱下の墓参りを想像していたが、昨日はそれほどでもなくて幸いであった。初めて目的の墓がどこかしばらく迷った。霊園は老人で溢れていた。

老人や 息絶え絶えの 厳夏超え 倒れて静かに 暖気に包まれ

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        先日は、元町付近でまとまった雨が降ったことがあったが、その日垂水では1滴も降らなかった。逆の場合もある。垂水では強い雨と風が見られて、傘も差しずらかったのに、元町近辺はやけに静かに雨が降っているだけだった、という類。  これらの原因の多くは六甲山脈にある。鉢伏山、旗振山、鉄拐山、栂尾山、横尾山、高取山、菊水山、鍋蓋山・・・・・・・・・・・。これらは衝立の様に垂水と市街地を遮断している。写真は旗振山。

突然に 姿の消えた 幻よ 重ねた色も 爆ぜる声も

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   ここのところブログ名での事物検索ができたりできなかったりして、不安定であったが、クッキーの全履歴を一挙に削除したら、とてもスッキリ風通しが良くなった。このため他の領域で手間のかかる仕事が増えたが、それもやむを得ない。

百日紅 ギンギラ太陽 はね返し 白や赤の こんもりお花

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      100日咲いているから100日紅。

我もまた 世人と違わず 小器用に 流れに添い 時たま顔上ぐ

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                   夜の平磯緑地  立秋も過ぎ、あいさつ言葉も「暑中お見舞い」から「残暑お見舞い」に変わるのかとふと思った。同時に意味のある変化なのか?と頭をよぎる。でもそんなことを言い始めたら、習俗や文化を蔑ろにすることにならないか、と囁く声もする。面倒臭そうな空気が漂いそうだったので、そこで思考を止めた。

ジージーと 喚く読経 樹々の間 煩わしい 思いを溶かす+ご報告

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   ご報告    この1ヶ月間の訪問者は426名、累計は2747名でした。   ブログ名「海峡のセフィロ」は現在用語検索できません。

ドォーと 引いては寄せる 波の様に 声を限りに 鳴き咽びおる

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   アメリカのSFテレビドラマFringe(フリンジ・非主流科学)を見ている。父である天才科学者ウォルターとその息子ピーターが大きな役割を果たしているが、ことあるごとに、不可思議事象に単に疑問を投げかける息子に、父親が一定の仮説を披歴し、「お前は銅像力にかける。」と一喝するシーンが印象的だ。視聴者が一喝されている様に感じる。合計100話。長丁場だ。

深奥の 蝉声の中 潜みたる 静寂に心 囚われていく

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       家を出なくなった友人を見舞うようになってずいぶんになるが、これはその友人の長女の要請であった。家人からすれば一切外に出ようとしない状況は、これと言ったことはないにしろ、やはり異常に思えたことであろう。本人も足を見せて、筋肉が落ちたこと、毛が全くなくなってしまったことを嘆いている様である。かと言って散歩に誘っても、馴染みの料理店に誘っても渋るばかりである。大雑把に言えば、家族が思うほど本人は家に引きこもっていることに苦痛は感じていない様である。ところで本当のところはどうなんだろう。月に一度くらいの割合で見舞っているが、その探究も目的の一つになりつつある。

昼の前 さっと鎮まる 蝉の声 風のみ通る 呆けた世界

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 さっきまで轟々と鳴いていた蝉の声が、気がついたら全く存在しなくなっていた。こんなに生きてきて知らなかった。     よく聴いてみると、時たま鳴き出しそうになる蝉がいるが、周りの空気を察して尻すぼみに大人しくなってしまう。  甲子園球場の応援に似ている。どんちゃかどんちゃかやっているが、一瞬全くの静寂が訪れることがある。これは意識的に設定していることだが、蝉の方はどうだろう。

バイク音 脆弱に聞ゆ 蝉の声 オーケストラの 和音轟く

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             ここのところ蝉の鳴き声が勢いを増している。ただ単純にこうこう照りの灼熱の夏が懐かしい。ギラギラの太陽ととてつもなくうるさい蝉の自己主張。昼下がりには、自然と体を横にして、過ぎゆく過酷さをぼんやり眺めたりしていた。

旅先の 躊躇の想い 思い返し 幾度試みし 夢想の戯れ

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                     サルスベリ  ドイツ映画「希望の灯り」を見た。ドイツの巨大スーパーマーケットを舞台にした映画。原題は、「通路にて」。日本語題名は、例によって、乙女チック、ロマンチックすぎる。映画自体は、とても落ち着いた静かな映画だ。カメラがやたらと動かず、とっても好感が持てる。そこで働く従業員たちを静かに追っていく。映画全体に対する好感度が時間が経つにつれ徐々に上がっていくのを実感するのは、そう多い経験ではない。絶賛。

木漏れ日の マダラ模様が 蠱惑的 アスファルト背に 醸す幻

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      熱中症の報道が一時凄まじかった。そのせいか今年の夏は暑いと感じている。ただ昨年と同じように毎日ランニングに勤しんでいるが、汗のかきようと言ったらそれほどではない。印象ほど暑くないのか、体が汗をかかなくなったのか、そのいずれか、あるいはその双方が原因なのか。  今「白痴」を読んでいるが、これが結構楽しい。何回めだから筋を追う必要はない。脇道にそれてもそれが脇道だとわかる。となるとその脇道を楽しもうという気持ちになる。その脇道が楽しい。哀れな少女と村の子供たちの話とか興味は尽きない。最初からこんな読み方をできる人を読書家というのだろう。