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12月, 2023の投稿を表示しています

コンビニ

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   宿泊中の来客が39度の高熱。何はともあれ近くのコンビニへ。熱冷まシートを見つけてホッとする。コンビニあってよかった。      反り気味に 前にゆったり 歩を進む ホットパンツの 足嫋やかに

アントニオ・ビバルディ

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   毎朝「アレクサ」に言うのは、「ビバルディかけて」だ。もちろんベートーベンほど深刻ではなく、モーツアルトほど優雅でもなく、ショパンほど軽妙でもない。これが朝の雰囲気にピッタリとはまる。何気のない時間が自然に流れていくのが愛おしい。      薄暮れて 鳥声も絶え 家路思う 吸い込まれそう 静寂横たう

平穏無事

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   ここ2、3日とても暖かく、暖冬の年末年始の予想を頷かせる。穏やかな天候は時が止まったかのような安心感を持ってくる。正月に抱くイメージは平穏である。        反り気味に 前にゆったり 歩を進め ホットパンツの 足たおやかに

12キロ

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   昨日は孫を連れて近くの山に登り、麓のカフェでランチし、そのまま歩いて帰ってきたら、歩行距離は優に10キロを超えていた。人といると家族といえどもやはり疲れる。子供には色々な体験をしてほしい。それらが全て選択肢となる。選択肢のない子供は一般的に不幸だ。                     長閑なり ガラスを越した 陽光さす 沖の白波 キラキラ煌めく

ピアノコンチェルト

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   モーツァルトのピアノコンチェルトといえば、20番から27番を思い浮かべ、果たしてその中で一番はどれかを決めてやろうと是非もない試みに挑んだ人も少ないわけではない。そして聴くたびにその聴いている曲が一番だと思うことになり、この試み自体の無益さを思い知るのである。  そしてふとしたきっかけで疑問が生まれた。これらの絶対的とも言える名曲が演奏会で演じられることはなぜかくのように少ないのだろうかと。するとまず思い浮かぶのは、評価はそれほど高くないのでは、と言う考えだった。  5番から27番を毎日のように聞いていると、あることに気がついた。20番以降は他と異なる。10番代は素朴で淡々としているのに、20番以降は派手で大仰で、感動的で、感傷的だ。観客を想定して、その観客の関心を買おうとしている。そしてその観客と私たちが重なり、名曲と評価されている。作曲家が自らのために作ったのは、10番代以前だろう。       走れば 見える聞こえる 考える 過去に通じる タイムトンネル       

英語学習アプリ

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     ここのところ毎日数時間英語学習学習に取り組んで、3ヶ月が経過した。競争が激しくて毎日のように順位が上下する。向上心を煽ろうとしての管理者の知恵なのだが、まともに付き合うとバカらしさが込み上げてくる。最初は毎日15分程度を予定していたのに、結局1日平均100分は行っていると思う。費用は年間で支払ってあるから3分の1経過したことに。      年の瀬に なすべきことや ありうべく 年初めに 何をやなさん   

クリスマスの街

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   クリスマスに街(元町)に出てみたが、熱気のなさに、そしてクリスマスソングのなさに今昔の感を抱かざるを得なかった。若い娘が大きな太ももをほっぽり出して歩いていたが、このホットパンツみたいなのは流行なのか、たまに見惚れるくらい綺麗な足の方もいて目のやり場に困る。     街中は ももひけらかす 若き女に ひれ伏すかのよう 冬の風吹けよ         

クリスマスソング

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 ずっと恒例だった年末のクリスマスソングだが、気がついたら最近はとんと聞かない。ジングルベルとかホワイトクリスマスとか。何かに取って代わられたと言うより、何も町中に鳴り響いている音楽がない。騒音苦情がそうさせているのか。それとも多くの人が自らがクリスチャンでないことを自覚し始めたのか。それはそれで結構なことだ。  経験から言うと宗教とは思考を依存するものだ。依存する以上ストレスは大幅に減少する。その状態を洗脳と呼ぼうが帰依と呼ぼうが解脱と呼ぼうがまあどうでもいいことだ。近代人にとって思考を制約することは、まず第一にやってはいけないことだ。人類はアダムとイブを始祖とする教えを信じている科学者は矛盾の塊であって存在自体を思考できない。  「ささやかな思考を唯一の武器とする人類は勝ち目のない戦いにストレスまみれで敗れ去る。」  こんな場面が見えてきました。                     倒れそう 持ち直しても 倒れる時 必ず来る 後先のみや

悪口を言わない

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   経済誌に運気を上げると言う特集が載り、あれれと思ったが、それはともかく具体的な方策の一つとして挙げられていたのが、「人の悪口をいわない。」であった。  従来よりこの言葉には興味があった。「いわない」ことに重点があって、「思う」ことには関心がないのかなーと思っていた。つまりこうだ。人様のことを論(上げつら)うことそれ自体が悪いのではなく、それを口にすることが悪い、と言ってる。悪口を言うと、それを聞いている人に軽く見られるぞ、と言う比較的軽々な教えのようにも捉えられる。  人はこういうだろう。考えることも勿論悪いが、表現として「悪口を言わない」となっただけだと。  誰かに聞いたとか、誰かと議論したと言う記憶がないから、世間の人がどう考えているかは定かではない。  どうだろう?      これでいい これでいいよと 言い聞かせ 数十年余 ほんとにいいの

厳冬

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    久しぶりの厳しい寒さに、久しぶりの「おでん」で答える。久しくなかった厳しい寒さは、昔の記憶を徐々に呼び覚ます。登校途中に水溜りがあって、表面が凍っていたよなー。そう言えば昔は水溜りが道のあちこちにあって、よく車が通っていたよなーと思う。凍っていたと言うことは氷点下になっていたわけで、そういえば水道管が凍って水が出てこないこともあった。だから水をちょろちょろ出しておくのがいいと年寄りが言っていた。  それにしても近来は暖かくなっていたもんだ。オーバコートが死語になりつつあった。                 しば犬の 恐縮顔で おもさげね 飼い主かがみ 蚤取り作業

鶺鴒

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       久しぶりに帰ってきた長男に「あなたはどなたですか?」と尋ね、長男だと聞いても、その後20分おきに同じ質問を延々と繰り返したという話を、その友人の長女が知らせてきた。  同じようなことを体験した。何時間か一緒にいたのに、突然「あなたはどなたですか?」と。「〇〇です。」と答えると、帰ってきた返事は、「中高時代に〇〇君という親しい友人がいましたが、その人とあなたは違う。」「どう違うんですか。」「〇〇君はすらっとしていて・・」  この現象に新たな光が当たった。現在の友人には視覚的に今の長男だとか私が見えていないようなのだ。視覚の領域に白い部分が覆っていて対象物の輪郭も定かでなくなっているらしい。それが昔の映像と合致しないようなのだ。  なおその後は私には同じような体験はない。「あなたはどなたですか?」と聞かれたことはない。       夏去れば 夏の恋しい 秋なれば 秋愛おしい 鶺鴒の言う

大丈夫ですよ。

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    大急ぎでエレベーターに飛び乗った際、折あしく先に乗ってる中学生が「閉まる」ボタンを押していて、閉まりつつあるドアに挟まれた場合、陸橋の上を犬の散歩をしている際に、犬が前足を反対方向からく来る人のズボンにかけた時、中学生も散歩人もいずれも気まずい思いをするものだ。そんな時、相手が「大丈夫ですよ。」と言ってくれれば、気がとても楽になる。  そこで相手の方のことだが、どんなことが考えられるか。エレベータの件なら「危ないじゃないか!」と怒ったり場合によっては怒鳴ったりするかも知れない。犬の件なら「驚いて転ぶかも知れないじゃないか。犬を飼うならちゃんと管理ぐらいしろよ。」。こうなると通常嫌な思い増大させて、長らく嫌な思いを継続することに。そしてそのうちに平常心に戻ることになるが、戻すには結構手間や労力がいるかも知れない。そう思えば、初めからよくあることだと収めるのは、対応としてはストレスレスで、この世では結構(絶対的な)多数意見となる。  問題はこの多数意見行動を取れない人がいることだ。怒鳴らないまでもつい嫌な顔をしてしまう、というのは相対的な多数意見かも知れない。  気がついたら「大丈夫ですよ。」と言ってしまった人は、幸せなのだ。   ふんわりと 虚空漂い 思索あり あちこち伸びる 時は進まず             

美の探求

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   美しいものを見て同じようなものを作りたい、というのがスタートかも知れない。どの程度近づくかがテーマとなる。それに飽ききたらなくなると、誰もが注目していないものの中に美を見つけてくる過程になる。こんなところにこんなにも美しいものがあったのかという段階だ。それに飽くと自らの美を作り出そうという領域に入る。そして最初から実はそうなのかも知れない。美に向かおうという人がいたら、どんな声をかければいいのだろう。門外漢が述べる言葉がない。人生の終末と言われる頃になって、自らの夢を放擲すると広言した友人がいる。芸術家を目指した人だ。その昔サラリーマンだった頃ボーナスが出ると一部を送って応援のエールとしたことがあった。微笑ましいとか幼いとか、そんな甘温かい表現しかできない。  「やるぞっ」と言って手をあげ、「やめたー」と言って去っていく。それ自体が生命体みたいだ。それとは「夢」だ。                 煽られて 翻弄されて 身を委ね 心地よさに 思考忘れる

コンビニで

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   コンビニでスマホの写真のプリントを試みるが、これが結構難儀する。スマホから印刷機への情報伝達からして上手くいかない。やっとコンビニのWIFIとの接続が叶い、一歩前進。4枚分の情報を伝達したのに活用できるのは1枚分だけで首を傾げている間に、やっとこさハガキの印刷がうまくいくが、輝度がイマイチで納得がいかない。まあ今日はこれくらいにしてやるか。(プリントアウトしたのは下の写真)          強き風 汽水を揺らす 鴨の群れ 海面走る 痴れ者も見ゆ

転倒

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   友人が室内で転倒、頭部に傷を負い、そのまま意識を失うということがあった。その間火をつけていたレンジでフライパンが烟っていた。たまたま同居していない長女が発見し、ことなきを得た。友人は、いつも通り、何も覚えていないという。覚えていようといよまいと責任は免れない。       二人ほど 痴呆に墜ちて 失う耳 少なき友の 更に少なく        

自己完結

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   自己完結した文章とは、他の文章の引用などせず、当該文章で言い尽くしている文章である。例えば◯◯年◯◯月◯◯日作成の筆者作成の遺言書第5条参照などと記載する場合である。この場合その遺言書を見なければ、当該文章の意味は十分理解できないことになる。(添付されていれば問題がない。)  散歩している人、ランニングしている人にも同じことが言える。その行為以外の、例えば誰かと話したいとかの思惑のある人は、散歩そのものが自己完結していない。完結しているランナーや散歩人はすっきりしているのに対して、これらの人は目が泳ぎ、周りが気になって仕方がない。       湯に浸かり 瞑目すれば 思い溶け 時は止まりて ただ漂いて

オプト・アウト

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   大谷選手がロスエンジェルス・ドジャーズ球団と10年契約を締結した。当初オプト権は契約に含まれていないと報じられた。オプト権とは、契約締結中にもかかわらず、選手側が一方的に契約から離脱することができる権利で、選手側にとっては力強い権利だ。もちろん球団側にはない。今回の契約過程においては大谷選手側に強いリーダーシップがあると言われており、この権限が契約に入っていないという事実は理解し難かった。  ところで実際の契約内容は報じられているのとは少し異なるようだ。取り敢えずオプト権は入っていないが、オーナーか編成部長のいずれかが、その任を外れた時には生ずることになっている。これは二人に対する絶大なる信頼を意味するものだ。二人がいる間にはオプト権は発動できない、ということになる。逆に言えば二人ともに裏切られたら、どこへでもトレードされるということになる。万が一のことまで考えて契約条項を詰めるのが常識だ。素直に通例通りオプト権を入れるべきであった。  このほかにも契約金のほとんどを契約期間経過後に受領し、しかもその間利子がつかないというなんとも奇妙な契約内容になっており、しかも大谷側の発案という。  契約内容は不合理だ。無利子で10年後以降受領すれば計算上金額は半減する。アメリカ人には理解できないであろう。  大谷側には計算があったのだろう。金額は伝えられるような高額を希望していなかったのであろう。しかし最高額という金額を拒否できない。最高額はヒエラルキーのトップであり、これが上がれば付随的に全体の金額が上がっていく。大谷には最高額で契約する責務があったのだ。しかしそれは大谷の本意ではない。大谷としては数字として最高額が出て来ればよかった。むしろそんな金額を実際に受領して、ドジャーズの選手確保に支障が出るのは困る。  多分こんな複雑の思いの中で大谷は長い契約期間を過ごしてきたのだろう。  考えに考え抜いて、ことに臨み、そして素晴らしいパフォーマンスを披瀝する。  敬愛してやまない。           大谷の 新契約 驚かさる オーナーやめれば オプト権生る

将棋猛攻

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                                       ポルトバザール建築中・13日  将棋の対戦相手から猛攻を受けて何度これでダメと思ったことか。凌いでも凌いでも追求は止まず、一方攻め手は見えない。 やっと一手空いて布石を打つ。ジリジリするような緊迫感が押し寄せてくる。責めることが多いが、受けるというのはこんなにも充実感を伴うものなのか。感動すら覚えつつある。      仕組まれし メカニズムかな  遅々ながら 知れば知る程 なおなお深く                         

滝から落ちる

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          流されて 滝向かう舟 落ちるのみ 泣き嘆く人 ただ祈る人  「ただ祈る人」は心平穏で、「泣き嘆く人」はストレスフル。共に滝から落ちて死んじゃうんだけどね。前者はなんでも信じちゃう輩。右だと言われれば右向くし、左だと言われれば左向く。殺せと言えば殺すし・・・。後者は近代人。どっちが得なのかははっきりしてる。ストレスレスの方だろう。    

医者通い

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        繰り返し 思い至りし 出来事は 所詮目処なく 永遠の持病かや  数ヶ月ぶりに歯科と眼科に行った。まあ定期検診みたいなものだ。歯科医はプライドの高い広大出身者で、若い頃は変なにいちゃんだったが最近は年相応以上の風格を備え出した。医師の出身大学だが、診察室に張り出してあるのは広大と東大くらいだが、前者は堂々と後者はひっそりと設えてある。眼科医は人柄はイマイチだが、ともかく言葉使いが丁寧で優しい。それで商売大繁盛というわけだ。大学では接待術を学んだようだ。眼科では目薬の処方を受けた。最近だが投薬時にしっかりお薬手帳を見る。私はだいぶ前から電子手帳だが、ほとんど普及していないような印象だ。

待望の雨

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          刈られし 雑草放つ 強き匂い 剥き出しの生 そこに露わに  琵琶湖が干上がっているらしい。元々暑いだけで雨の降らない天候が続き、大騒ぎするわりに来襲した台風はなかった。こうなったら比良連峰の雪解け水しか頼れない、と言われていた。でもそれって来春のこと?そんな中雨が降りそうだとは昨日の予報。今見たら既に雨が上がって、どの程度降ったのかは定かではない。ただ湿度はこのところに比べて高い。50%程度。ないよりマシか!

城の跡

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            ラクウショウ・明石城公園・10日         駅のそば 城跡広く 休みの日 子馳け子泣き 『戦い」払拭      明石城公園は鳥が多い。木々が生い茂っているから当然といえば当然だ。これだけまとまって木々が生い茂っているところは街中では珍しかろうからありがたいだろうな。昔から早朝に来ては小うるさい鳥の声を楽しんでいた。思い出は朝の清々しさとつながっている。

会費還流問題

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   最近よくニュースショウでよく取り上げられている。清和会の問題。気の毒なのは主に芸人コメンターのみなさん。怒りの表現を求められている状況はよく理解しているが、怒りの根源についてはとんと気が行き渡っていないようだ。  問題の金の出どころは、パーティに参加して支払われた会費だ。今回この金の支払い者が何か文句を言っているというのは全く聞いていない。この派閥に集まったお金の一部が幹部に払い戻されたという構造だ。実際にパーティ券を売ったのは、個々のの議員。もちろん派閥の幹部もかなりの数を売ったと思われる。たくさん売ればご苦労さんと一部を手数料として支払う。まあよくあることだ。  まあここからだ。何かやってその報酬を貰えば税金が発生するんと違うの。報酬じゃなければ贈与なん、それやったら大変やで!税金の額。  違いますねん。政治献金ですよってに。個人的に懐に入るのと違いますねん。政治活動ってやつに使いますねん。  それやったら政治献金として報告しとかなあかんわな。金動いて黙ってたら賄賂違うのとか勘繰られるよってにと、みんなで決めたんと違うの。  そこですねん。忘れてましてん。なんせ国政に忙しゅうて。事務所に任せきりよってに。  そんな言い訳通用すっかって、検事さんも言いますで。収賄とか贈賄とか小難しい暑苦しい犯罪はかなわん。スパッとわかりやすうしてくれってことで政治資金規正法ができましたんやろ。記載するのん忘れたからだけや、と軽くいうてもろたら往生しまっせ。芯には贈収賄罪が仕込まれてんですよってに。  自分らで好きなように法律作れる立場やからいうて、軽く見てんのと違う。  一方で政党交付金みたいな国民に金出させておいて、一方で忙しゅうて忘れたやなんて、もう言葉ないわ。北朝鮮には罵詈雑言を案出する部局があるらしいけど、そこにでも頼みたいわ。     無能にて 妬み烈しく 老いゆけば 人は去り行き 想い拡がる                     

京都逍遥

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       所在ない そんな時間の その昔 焦って焦って 獲物を求めて  その昔京都に通い詰めている時期があった。昼トク切符なんぞ買い求めて。元々のテーマは、「一人でやること」の修練だった。一人で映画に行く、一人でレストランに行く、一人で旅行に行く。そんなことの修練として一人で京都に行くことにした。ルールも作った。京都駅から歩いていくこと。この企画は100回以上続いたが、結局京都のサイズが体感で分かった。京都は正方形で、一辺が5キロ。京都駅からどこでも歩いて1時間半しかかからない。  そんな中で気に入っていたのがお寺でクラシックを聴くことだ。とても集中できる。中でも一番気に入っていたのが泉涌寺だ。まず人が多くない。そして何より寺門より境内が下がっていることが大きい。吸い込まれていくように集中できるのだ。下がっていってもそこは暗くはない。低い東山の向こうから陽が差している。  そんな京都逍遥も終わってしまった。旬を過ぎたというべきか。

英語学習

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               走れば 見える聞こえる 考える 過去に通じる タイムトンネル    50年以上前ヨーロッパ中を旅したことがある。多分7カ国だったと思う。今話題のクリミア半島にも行ったが、当時はソ連領、その後ウクライナ領となり、今はどういうべきだろう。ウクライナから見れば、不法占拠されたウクライナ領であり、ロシアから見れば自国領土となる。北方領土みたいなものだ。要はあの国の性根は変わらない。こんな話はさておき、帰ってきてからつくづく思ったのは、語学は必要だなー。一夏英語漬けになろうと考えたのは数え切れない。そして半世紀が経って、一夏だってそんなことが実践されたことがない。「あなたも英語が話せます」という英語テキスト商法が廃れないのは、いつまで経っても英語は話せないからだ。  ところで愛読書の一つに藤原伊織の作品があるが、その中のどれかに主人公を助ける綺麗な女性が出て来るのがある。この作家の女性観は狭くて、ボーイッシュで向こう気の強いというものだ。ある場面でこの女性が流暢な英語を話す。驚いた主人公が、留学でもしていたのかと尋ねると、この女性の曰く。「英語学校で学んだのよ。」あんなところでは所詮話せるようにはならないというのが経験者の話だったから、この記述には驚かされた。  さて話は戻って、要はスマホのアプリで英技学習を始めて、今日で100日経ったのだ。評価は上位2%というからびっくり。もっとも成績なんて鼻から考えてなかった。ただ英語漬けになるという50年来の思いを遂げたかっただけ。

ビバルディとモーツァルト

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 このところ毎朝聴くのがアントニオ・ビバルディだ。ふとこんな命題が頭に浮かんだ。「ビバルディとモーツァルトは似ているか?」  モーツァルトは、1756年から1791年の人。ビバルディは、1678年から1741年の人。重ならない。モーツァルトはビバルディの影響を受けたか。ビバルディは生前高名でなく、評価が上がったのは死後だいぶ経ってからと言われている。モーツァルトは多分知らない。  ところで似ていると思われた理由は何か?  音調が優雅なところ、装飾音が多い。長調が多い。     もっと検討が必要だ。                  鳥の群れ 窓外過ぎる 切るように 冬の寒空 虫はいるのか

海鳥

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          海面を 滑空していく 海鳥を いつ落ちなんと 案じ見守る

年末は喪中ハガキがお似合い。そりゃそうだろう。

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   知人の母親が亡くなった。90歳を超えている。周囲が泣き崩れたのか、ほっとしたのかその形式的なハガキからは読み取れない。ただご本人はほっとされたかもしれない。      老人を 鬱と痴呆が 両睨み 目指す地遥か 途切れる難路  

風邪が治らない

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   鼻水とくしゃみ。倦怠感。熱はなく、食欲はあり、頭痛もない。咳もほとんどなく、風邪っぽいという状態。天気は晴れ渡り気持ちいいのに。昨日は孫が来るのを断ってしまった。     森の隅 決まった放尿 日々の習い 犬ころすなる マーキングとや

ワイアレス イヤホン

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   ワイアレスイヤホンがランニング中に右耳から落ちた。二度目だ。草むらの中落ちたことに気付いた地点と概ね付いていた地点を特定し、その間の捜索にかかる。こんなもの落ちないわけがないと誰かを罵り、にもかかわらず装着し続けている自らを叱る。あっとみつけて安堵したが、よく見るとそれはまだ落ちていないはずの左耳用だった。絶望させたり、喜ばせたり、それなりのドラマ仕立てだなと思ったりもする。次買うとしたら左右一体型の首にかける方式だな。そういえば以前道に這いつくばって目を凝らしている人がいた。コンタクトレンズを探していたのだ。それなりの時間が経って、最終的には草むらから回収できた。そしてまたあるなーという予感が一瞬走った。           斜め前 老人の影 付いてくる 横で後ろで 消えないんだよ

久しぶりに風邪をひいた

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   症状としては、くしゃみ、倦怠感、軽い頭痛、鼻水。くしゃみと鼻水は体がウイルスを体外におっぽり出そうと奮闘、倦怠感と頭痛は静かにしているようにとの警告、かように理解する。奮闘していることについては感謝し、警告についてはおせっかいと突き返す。いつも通り長風呂、ランニングは怠らない。対処は自分で判断する。             元凶は 教え垂らした あの書物 遺恨を今に 撒き散らしおる