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4月, 2022の投稿を表示しています

皐月空 マスク姿の ランニング 息の匂いに 興の醒め

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   雨が降ったり、晴れたりの天候が続く。今日は雨の日で、海峡も靄っている。時折霧笛が聞こえてくる。

突き詰める 追い込むことに いい加減 呆けて寝れば 最悪脱す

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   寝れば概ね物事は解決する。寝むれないのなら、横になっているだけでも、それなりの効果はあると思い定める。そして深い深呼吸をひとつ。これで寝ていると今度は思い込む。要は思い込みの勝負ということに。   白色の 薄紅至る 真逆花 箱根の山の ウツギという 

休み前 雨の予報 しょげる孫 皐月空下 弾む白球

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                     ケシ   成城石井からメールが来た。「山﨑」の抽選販売案内だ。一定の応募要件を備え、しかも幸運に恵まれなければ、入手できないという。いつからこんなことになったのか。以前はいつでも手に入ったのに。ところで私のスピリッツ人生も三年ほど前に始まった。年老いてまで生きていて良かったと思わせてくれた時の一つだ。神戸のホテルのメインバーだ。そこであるスコッチを薦めてくれた。そのスコッチに行き着くには前段階があるのだが、それは置いておこう。それは「ストラスアイラ」だ。芳醇にして優しい。今思えば「山崎」にも通じる。それ以来シングルモルトウイスキーはストレート一本槍だ。色々飲んでいるうちに大きく分けて二つの傾向があることがわかった。芳醇系とガツン系だ。後者は「グレンリベット」などだ。硬水が使われていることが多いようだ。癒されたい時には芳醇系、元気もりもり時はガツン系。アルコールに弱い日本人特に女性には芳醇系が人気のようだ。「余市」もそうだと思う。ちなみに「ストラスアイラ」は販売を終了している。とても残念なことだ。                                

何事も フェイクフェイクで 言い逃れ ふと気が付けば パンドラの箱

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  自らにとってまずいことは、全てフェイクで終わらせてしまう風潮。力さえあればなんでもできるってことになる。  「カラマーゾフの兄弟」の中で、ドフトエフスキーはいう。「肝心なのは、己に嘘をつかぬこと。己に嘘をつき、己の嘘に耳を傾ける者は、ついには自分のうちにも、周囲にも、いかなる真実も見分けがつかなくなって、ひいては自分をも他人をも軽蔑するようになる。」  嘘をつく人って、まず自分に対してです。嘘はつくが自分は全くそれに動じない人は少ない。嘘は他人を騙すというより、自分を騙す要素が先でしかも大きい。  ロシア社会でこの問題は常に大きい。  一般的に政治家に嘘はつきものではある。庶民的な正義感と政治家の正義感は異なるとは、マキャベリの言った通り。この分離が分離のままで許容された時代や世界もあった。  しかし、今やSNSの時代。こんな分離が許されるか。方法はともかく結果だけを見てくれという時代から、今やその方法についても庶民は関心を大きく示す。マキャベリの指摘はいつまで通用するか。これが今の状況の眼目である。

クロアゲハ ツツジ漁って 蜜を吸い 休まず羽ばたき 一匹で健気

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   平磯緑地は今がツツジの盛り。朱色の花びらは上品とはいえず、クロアゲハがその中に舞う。はっきりいえば小振りのツツジが好み。葛城山のツツジは今から盛りとなる。アゲハも含めて最近はほとんど蝶々は見ない。なんとかやっていけてるのだろうか。  

横並び 緑織りなす 森の春 一際目を引く 楡の新緑

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  ここのところ天候がすぐれない。曇り、雨、曇り。こんな感じだ。でも植物にとってはいい環境なんだろうと思ってしまう。人間にとっちゃ、洗濯物の乾きは悪い、気分も盛り上がらない。でもなぜ天候がすぐれないと気分も盛り上がらないのだろう。猟に出ても獲物が捕獲しにくい、採取に出てもろくなキノコが取れない、豆が取れない。長き長き狩猟採集時代の名残かもしれない。狩猟には運動神経とチームワークが要りそうだ。採集には根気と冷静さが要りそうだ。採集から農業に繋がっていきそうな気がする。毎年同じようなところにキノコが生え、同じようなところに野菜ができているのに気がついたら、毎年そこを目指して採集に行くだろう。そのうち取ってきたタネが落ちてそこにも生え出したとしたら。農業まではもう少しという気がする。その点狩猟は取り尽くしたらそれまでで、他に行くかということになりそううだ。人類史の99・8%の狩猟採集時代。

春の海 黒煙残し 漁船滑る 鯛や蛸待つ 港目指して

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  毎日のようにウクライナの窮状が伝えられている。伝えられる人々の気持ちはよくわかる。なんとかしてあげたい。理不尽な暴力が振るわれている場合、救援の手さえ現地に着けば事態は回復する。と思っていた。しかし今回の場合、理不尽な暴力は一向に治らず、人々は無力感に苛まれるだけだ。  おおらかな時代、国家自体が出張っていけない場合、義勇軍という形で一方を応援したものだ。スペイン内戦がそうだった。あの名作の舞台となった。  近いところでは朝鮮戦争。名前だけの義勇軍で実際は正規軍だったようだ。  現に今もウクライナ側に数万の義勇兵がいると言われている。日本人も参加している可能性がある。駐日ウクライナ大使館が募集した時、三桁に近い人が応募していたように思う。  行って暴虐者に一矢でも報いたいと思うのが人情だ。  親の気持ちはどうだ、家族の気持ちはどうだ、という問題はあるが、それが全てを覆い隠してしまうのが、今の日本の問題ではないか。いつまでも親子が仲良く暮らせればいいが、彼の地ではそのようなフィクションがものの見事に現実にぶっ壊されているのだから。  日本が同じような目にあった時、日本は戦えるのだろうか。  日露サケマス漁業交渉が妥結した。ウクライナに支援を惜しまない日本に嫌がらせするだろうと危惧されていた。ところが急遽妥結に至った。理由は漁業協力費数億円だった。金がないのだ。これが弱点だ。  

雨止みの 朝は清しく 森映える 声だけの小鳥  喧(かまびす)しい

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                          散歩コースは、西は舞子公園、東は平磯緑地の東端。ずっと明石海峡に面している。行き交う船も多いが、霧が出ている日はほとんど見かけない。ところが既に海峡に多くの船が入っているのに、霧が出てきたとなると大変だ。霧笛がうるさく飛び交うことになる。靄っている日には海はドロンとだらしなく、西風厳しい時化た海が懐かしい。東から明石海峡を越えるとそこは大きくえぐれた播磨灘となる。目の前に家島群島と小豆島が待っている。明石海峡を大門と喩えた万葉歌が確かあった。

花の去り 落ち着き戻す 森の朝 木漏れ日優し 園児騒めく

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                   ヒメオドリコソウ     近隣の保育園、幼稚園で感染者続出と聞く。感染者が出ると休園となる。休園を免れたところでは、室内で遊ばせておくよりは、自然換気の公園に連れ出すのが無難だ。

雨の落つ ポトリポトリと テンポある 雨具の強張り ガサガサ鳴る

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                   ヤマホウシ  公園は歩く人も走る人も多い。モンベルのショーケースから飛び出してきたような人も少数派とは言えない。ほぼ完全な防雨防風対策済みの衣装は100%近い。そしてそこまでしていて、なぜ?と思わせるのが、携帯傘の携行だ。公園で濡れてもせいぜい2、30分だ。用心が過ぎて興醒め。

埋めていた 下絵掘り出し 色塗れば 別の世界の 別の葛藤

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                    さくらんぼう  このところ室温は20度を超えているが、何故か肌寒い。今年の冬も寒かった。寒い、暑いといいながら、月日を季節をやり過ごしていく。飽きるかもしれないやりとり。飽きるほど繰り返すと、そこにえも言えない情緒が付け加わる。明日もまたいつものように来ることを願う。

ひょこひょこ ハクセキレイ 首突き出し スリムダンディ 歩いては跳ぶ

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   世界には二種類の人がいるそうだ。「カラマーゾフの兄弟」を読んだ人と読んでない人。陳腐な表現ながら、この小説の大切さを表しているのだろう。ちなみに圧倒的に後者が多いと思うが。  評論されることも多く、父子の葛藤だとか国家との相克だとかの類が多いようだ。それはさておき、小説の中で描かれるロシア社会のまず感じるのが重苦しさだ。自堕落な酔っ払いも目を引く。(ソビエト・ロシアの頃モスクワ近郊を歩いたことがあった。駅前には終日にもかかわらず酒に溺れた人が当たり前のようにいた。観光地であるモスクワでは見れない光景であった。ロシアは帝政から共産党支配そして現在とずっと開かれた世界ではなかった。)そして世を覆う不条理だ。もちろんこの不条理はロシア特有のものではない。ただこの不条理が極端に典型的な形で存在しているのではなかろうか。  ドストエフスキーの思いが解りやすいの小説は、「白痴」だろう。荒んだこの社会に純真無垢な「白痴」を登場させたらどうなるだろうか。存在しないから興味が尽きない。  この「白痴」を「現代人」と置き換えたら、今をきっと解き明かしてくれる。

海凪いで 日差しも淡い 昼下がり 丸い綿毛 見つけては蹴り

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   昨夜「シンドラーのリスト」を観た。人々が呆気なく殺され、当たり前の世界に、つい思いがウクライナに及んでしまう。  つくづくナチスの蛮行に心が沈む。  ところで前から気にはなっていたことがある。ナチスを扱った映画を見ていると、恣意的にあるいは些細な理由によって、人が撃ち殺されるシーンが頻繁に出てくる。  私の見たところ、殺戮者は将校に多いように見える。殺戮は将校に与えられた権限なのだろううか。兵隊が将校の命令なしに殺害に及んでいるシーンはあまり見たことがないように思われる。  ユダヤ人は人間以下だとしている一方で、軍内においても将校未満は考えること決断することを許されていないのではないだろうか。  映画は最終場面で、シンドラーの後悔が語られる。目の前の車を指して、「この車でもう二人救えたかもしれない」、ナチスバッジを示して「これでもう何人か救えたかもしれない。」従前からもっとも違和感を感じるシーンだ。批判を許さない状況下におけるシーン。  もう一つ考えさせられるシーン。30人くらいの被収容者の集団で、20人以上が次々に撃ち殺されるシーン。何故素手でもいいから反撃に出ないのだろう。 何故600万人もの人が反撃もせずに殺されたのか。  ヒントになるシーンもあった。ある女性がアウシュビッツの話を始める。今からすると真実なのだが、その場では、「私たちは貴重な労働力だから殺すわけない」「アウシュビッツに行ったら戻れないはずから、そんな話は出鱈目だ。」という意見が多くを占め、アウシュビッツの話はフェイクとされてしまう。辛ければ辛いほど人間は真実を認めたがらない。  銃口に押さえつけられる一方のユダヤ人だが、唯一感情を爆発させたシーンがあった。子供たちが集団で何処へかトラック輸送されるシーンだ。これ以外は何をされても・・・。  施設を開放しにやってきたソ連将校の言葉が印象的だ。彼らがユダヤ人と聞いて、「これから東には行くな。君らは嫌われてるからな。西・・そこでも嫌われてるからな。」  シンドラーの人柄といい、救出の経緯といい、史実はかなり複雑であったろうと想像され、それを一本の映画にまとめるのはかなりの労力を要したものを見受けられる。  

歩けなく 時の来るのを 思いつつ 今の有り難み 忘れがちかな

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                   ナガミヒナゲシ                 (平磯緑地なぎさ池)  ナガミヒナゲシは、他の植物の成長を妨げるアレロパシー活性が高いと言われている。またアルカイド性の有害物質を有しているため、茎などに触るとかぶれる恐れがある。  アレロパシー活性については、セイタカアワダチソウが有名で、cis-DMEという物質を根から放出する。最終的には自らもこの物質のおかげで成長が妨げられ、おバカだと指摘されることも。  いずれも花としては好印象。

自らは 今日も起き寝る 殺戮者 哀しみ忘れ 時の経つのも

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                                                                 マツバウンラン  リュック・ベッソン監督の「ジャンヌ・ダルク」を観たが、予想に反して全く面白くなかった。観念的で理解しずらい。監督独特の種明かしのような手法は生きてはいたが、使用方法に感銘は受けなかった。

あたかも ナチス蛮行 目の当たり デジャブ感 半端がない

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   道端の遺体に地雷を仕掛け、遺体を丁寧に扱おうとする人を殺める、侵略地から子供を大量に拉致し、戦士として洗脳し、侵略地への再侵略に利用する等々。人間としての悪辣さだけが異常に研ぎ澄まされた人々。ナチスの所業を知って彼らは人間かと頭を抱えた時と同じことがまた起こっている。それも残酷なことにリアルタイムで。  世界中で先陣を切って死刑制度を廃止したヨーロッパ諸国を嘲笑うかのような天の配剤だ。その昔ヨーロッパ列強も植民地施策では言い尽くし難い所業を続けてはきた。今がその反省の上に成り立っているとしたら、彼の国にも同じような経過を祈らざるを得ない。  ドストエフスキーを読んでいて、ふと思うこと。祖国の粗暴さと、無教養を心底嘆き、絶望する姿。                  ナワシログミ  リュック・ベッソンの「アナ」。米ソのスパイ戦を描いている。とっても面白いのだが、フランス人の好悪が垣間見れる。共に嫌いなのだ。騒がしくて無教養だから。でもどちらかと言えばアメリカに親近感を感じている。まだ人間味を残しているからだろう。ところでこの映画、「何ヶ月後」「何ヶ月前」のキャプションがやたらと出てくる。時系列が行ったり来たり凄まじい。要は監督が遊んでいるのだ。とっても楽しめる。                

友惚け 筋肉落ちて よろよろと 何度も尋ぬ ゴルフやってる?

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                     ツツジ   サクラとユキヤナギが去ったかと思うと、今度はツツジが咲き乱れる。

仕方なし 殺戮者 言い訳す 今漸くに 地獄門開く

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       昨日昼のニュース番組で駐日露大使のインタビューが放送され、ブチャの虐殺について明確にこれを否定した。駐日大使から本国政府の見解と異なる見解を聞き出せると思ったのか。わざわざ殺戮者らのために公共メデイアを提供する必要があったのか。同席していた弁護士コメンテーターがいみじくも言った。家族を祖国に残してきている可能性があるわけで、その彼に何を言ってもらいたかったのか。近頃稀に見る愚かしい企画であった。                  フヨウカタバミ  侵攻は仕方なかったとの露大統領の記者会見を評して、自らの行動を正当化したものとマスコミは報じた。違う。元々自国民保護を標榜しての進行であった。正当化する必要性などあるわけがない。素直に取れば、これは言い訳だ。強権の独裁者が言い訳を始めたら終わりだ。  リュック・ベッソンが大コケしたと大評判になった映画、ヴァレリアン千の惑星の救世主、を見た。何故転けたのか不思議だ。この監督の他の作品と少しも変わらない。斬新な設定と色使いは、フランス好きを狂気させる。出てくる妖怪めいた登場「人物」たちがスターウォーズのそれと似ているのご愛嬌。  チャップリンがヒットラーを射抜いたように、ベッソンにも挑戦してほしい。

消えていく 心の動き 年々と 挑む意欲も 思い出の中

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                   カラタチ  暖かくなると少しずつではあるが花が咲き始める。毎年同じなのであるが、何故か懐かしい。                   ノゲシもそうだ。なぜケシなんだと、毎年思う。

拘りは 深い意味知る きっかけにも 深い穴落ち 苦吟するかも

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   物入れで陶器製の蒸し器を見つけた。鯛蒸しに挑戦してみた。課題は二つ。一つは蒸し加減で、もう一つはつけだれを何にするか。前者は、「美味しんぼ」でも指摘されていた。浅すぎると生っぽく、やりすぎると身から味が落ちる。ぎりぎりの線を狙わなければならないらしい。これは勘に頼るしかない。後者は、イメージとして、辛味と油分だ。となると近いのは餃子のタレだ。  結局12分蒸してみた。これはやりすぎた。身がふにゃふにゃだ。タレもしっくりこない。レシピ本の指導は、出汁の効いたあんだれだった。  今年初めてたんぽぽの綿毛を見た。長年うまくスケッチできない一品だ。

ひときわ  暖かさ知る  今年は  禍害に「露」害  得体分からず

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   靄のかかったような鬱陶しい日々ではあるが、久々の暖かさはホッとさせてくれる。 同時に作ったもう1首。   「全て去り すっきり澄んで 秋の日を ただ空を眺む 日と定めたい」 全てが終わったら、ただ空を眺めましょう。                興味深い映画を観た。「ナイブズ・アウト名探偵と刃の館の秘密。」主人公の女性が嘘をつけない体質っていうのだから、まず驚かされる。嘘をつくと嘔吐してしまう。名探偵をダニエル・クレイグが演じるが、ジェームス・ボンド役の時のスマートさが微塵もなくて見間違う。いいのか悪いのかは微妙。サスペンスなのでもちろん何人か死ぬのだが、メインの死は、これほどのことが出来るのかと刮目するほど感動的なのだ。あまりにも善良な女性とそれに精一杯応えようとする男。クリストファ・プラマーの演技から肩の力が抜けていた。  サスペンスを気楽に楽しもうと思ったのに、瓢箪から駒だ。  

白い道 ピンクの道 落花敷き 今年もこれまで 惜春の候

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      ソメイヨシノは、エドヒガンとオオシマザクラから生まれた。エドヒガンは淡い紅色の花をつけ、先に花が咲き、その後で葉が出てくる。オオシマザクラは、白い花をつけ、葉が出るのと同時に花が咲く。ソメイヨシノは、エドヒガンにやや近い。   従って趣はやや異なる。ソメイヨシノはふくよかで洗練されている。一方オオシマザクラはやや野暮ったいが、淡白で、親しみやすい。花が咲くのは若干オオシマザクラの方が早い。神戸では2月末日に満開になった年もあったが、人々の口からその話が出ることはほとんどない。ソメイヨシノは別格で、オオシマザクラはその他大勢の花の中の一つだという扱いだ。  「白い道」とは、オオシマザクラが散った道。  「ピンクの道」とは、ソメイヨシノが散った道。  先にオオシマザクラが咲くのに、2種の道ができるのは、オオシマザクラの花期が長く、ソメイヨシノのそれが短いから。まだかまだかと待たれ続けて、咲けばあっという間に散りにける。  ちなみに桜餅に使われる葉は、オオシマザクラ。

外人も すなる立ちション 周り見て 何故か似合わぬ 欧州景色

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暖かさ それ華やかさ 穏やかさ 耳すませば 花の語らい+ご報告

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                 小さな小さなカタバミ  ご報告    1 3ヶ月目の延べ閲覧者数は390名でした。累計は1230名。    2 ブログ名の変更を検討中です。

重傷者 減って安堵の アナの声 回復したと 何故思い込む

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    歩いていて時折えっと目を引く花がある。たとえばダイコンの花だったりするが、この写真の花も同じだ。   ハナニラだ。

突き進む 逆風向かう 小舟あり 海苔養殖 それなりに手間

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       神戸の漁協の中で海苔養殖が大きなパーセンテージを占めていることは、近くに住んでいる人は知っている。養殖場があること、養殖用の漁船があること、漁協の販売所で海苔が常時販売されていることなどが理由だ。  いわゆる漁業に比べていろいろな意味でリスクは少ないようには見える。台風被害の他には赤潮被害くらいしか頭には浮かばない。  

その昔 たとえ戻れても すべきこと 分からず迷い 自らを責む

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    現在の叡智を持った状態で昔に戻りたいという人が結構多いらしい。今の叡智があれば人生は違った様相を示していたであろう、との思いがある。大胆な発想でこのようなことは好みに合わないが、一方同じ状況に逢着すればどうするのだろうかという興味はある。  ところでムード歌謡や演歌は本当に罪がないなーと思う。「別れても好きな人」とか「会いたい気持ちがままなならぬ」とか「海より深い恋心」とか、どんどんやってくれと言いたくなる。これらの歌詞の要諦は、小学生でもわかる歌詞である。  しかし実はまんざらそうでもないかもしれない。ありきたりな歌詞、ありきたりなメロディの中に「玉」があるかも。   「恋人よ」は、別れ話を切り出された女性が、ひたすらすがる話だ。途中で設定がわかりギョッとする。 「異邦人」は、中近東を歌った歌ではなく、喩えとして異邦人が使われているだけ。あなたから見て私は、異邦人のように縁のない存在だ、という。 「飛んでイスタンブール」は、韻踏みに凝っただけの歌。昔子供としりとりゲームをよくやったが、作戦は「る」で終わる言葉で責めることだ。「る」で始まる言葉は限られるから。この歌も結局そう。 「秋桜」は庭先でごほんと母が咳をする歌詞がいい。こんなことが歌詞になるのかと、唸らせる。「昴」の浮ついた歌詞と好対照だ。 「セカンドラブ」は、歌詞が秀逸。子供から女性に変わる過渡期の心情を巧みに表現していると言われるが、むしろ恋愛の本髄を見事に射抜いている。 「店の名はライフ」は、中島みゆきが目指すべき方向性を示す歌だ。今の多くの傾向は、重苦しく、独りよがりで、結構疲れる。 「かもめはかもめ」は、研ナオコの方が作った人よりいい。こんな歌を重苦しく歌われたらどうする? 「まちぶせ」は、ユーミンの動画がキモい。 「乙女座宮」は、一番好きな歌。肩に力が入らずノーストレス。

アゲハ蝶 青黄の配色 エレガント シュールなバランス しばし見惚れる

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   「別れの朝」の前野曜子歌唱を聴いた。前野さんは,ペドロ&カプリシャスに2年間在籍、その後を高橋真理子が引き継いでいる。まず第一に思ったのは、高橋さんの受けたプレッシャは半端なかっただろうな、というものだった。  前野歌唱は、切れ味良く、軽く、ダイナミックそしてドライだ。高橋歌唱は概ねそれらの逆をいく。要は情緒的だ。所詮好き嫌いのレベルの問題に過ぎないが、後を継いだ高橋さんとしては、前任者を意識せざるを得ない。歌い方に選択の余地は少なかった。  前野さんは歌唱力の持ち主で、高橋さんとしては比べられる立場は、出来たら避けたかったろう。  前野さんの歌唱を初めて聴いた時、いつもの印象と違うのに感銘を受けた。つまる所高橋歌唱と違っていたということだ。よく聞くと線の細さや存在感の薄さが浮かび上がってきた。  「ジョニーへの伝言」や「五番街のマリー」は高橋さんが歌った曲だが、見違えるように溌剌としている。まるで呪縛が解けたように。

ふくよかに 花の幸せ 咲き誇れ 得がたしもの 時は短く

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  肌寒い日が続く。平磯緑地はほぼ満開だが、人影まばら。一箇所に留まろうという気が起きない。

嘘をつく 相手もなしの 4月ばか 爽やか風の 通り過ぎゆき

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   いっときは名も知れてない会社の代表者なんて肩書きは、怪しいものの一つであった。ところが昨今はどうだろう。どんな小さな会社であろうと代表者っていう肩書きがないと一人前じゃないような雰囲気が漂う。発言するにしろ行動するにしろ、一人前でないと話にならない。一方会社員なんて自立した人間の見識とか度量とかがないような感じ。歯車感が半端ない。  その昔は、会社員だからこそ個人でやるより大きなことができる、って言われたこともあった。考えてみれば、全ての会社員がそういう状況にあるとは限らない。  仮に会社員で企業の代表者に伍することができる人間がいるとしたら、自分は会社員ではあるが、これこれの理由で大きなことができるという、主張並びに立証責任を尽くさなければならない。  現今の閉塞した社会にあって、会社員は最も覇気に欠けた存在としての認識が広がりつつある。先行きに一切のリスクを想定しない人間はその時点で社会の落伍者候補ということになる。なぜならあらゆる人にリスクは常に用意されているからだ。