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5月, 2022の投稿を表示しています

ネムノキの 開花を待ちて 日参す 雅な扇 寝入る羽状葉

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     優しげな 葉の風に揺れ ネムノキよ 花咲く時の 待ち遠しい  ネムノキは下からばかり見ていては、虚をつかれる。冬場は一切の葉が落ち、春になってまずは葉が茂って緩やかな風にゆらゆらしているわけだが、花がこんもりした枝の先端から咲くときがあるのだ。それを見るためには、少し離れたルートから樹木全体を見るようにすればいい。  名前の由来は、夜になると小葉が閉じて垂れ下がる就眠運動を行うから。実を言えば、花より圧倒的に羽状葉が好き。優しげで柔らかそうで風になじみそう。

夜の浜 波音騒めき 駆け抜ける 向かう風頬 そっと撫で去る

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   皐月の夜の浜は、気候も良く絶好の散歩コースだ。走る人、歩く人、階段に座って語らう人、波打ち際でじっと佇む人。予想外に暗いのには驚いた。事情通はライト持参だ。  雨が降ってもいいかもしれない。余計なものが削ぎ落とされてスッキリするかも。  風が吹くとこれはどうだろう。あの不安感。居た堪れなさ。これはパス。 でもほんとは、パスできないんだ。

100日を 心許なし 一人暮らし せめての救い リモート面談

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               胡蝶蘭とトルコ桔梗  リモート面談については、その効果のほどに疑義が指摘されてきた。本来の面談に比べて、圧倒的に情報量が少ないわけで、当たり前と言えば当たり前。伝わる熱も、匂いも、何もかもがない。現在の技術力で伝えられる情報量は面談の何パーセンチくらいなのかの情報もない。  しかし、音だけの世界に比べて伝えるものは飛躍的に大きくなっている。ここのところ多くの病院んで入院患者との面会はできないことになっている。免疫力の落ちた患者にコロナウイルスが感染すると重篤化する可能性がある、という建前が無反省にまかり通っている。そんな中リモート面談は本当に貴重なツールだ。感謝している。

自らを 全て晒して 芯打てば 悔しさの消え 悲しさ流るや

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   実務には役に立たざるうた人と 我を見る人に 金借りにけり  その後に我を捨てし友も あの頃はともに書読み ともに遊びき  買いおきし 薬つきたる朝に来し 友のなさけの為替のかなしさ                            啄木歌集より                             

群れ騒ぐ 老女ばかりと 思いしが 老爺負けじと 木の下(このもと)駄弁る 

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                   モッコクモドキ  野太い声で毎日のように駄弁りながら歩いたり、木の下のベンチで憩ってる70代の男性たち。女性たちの集団のように話が弾んでいないような感じなのだ。女性たちの話が弾んでいるように見えるのは、これはこれで曲者だ。後で聞いてみると全く話が弾んでなかったという回答が来ることが少なくない。  ところで男たちの話に戻すと、男だけのグループと一人の女性が混じっているグループがある。後者については、誰かの奥さんという可能性があるが、見立てはノーだ。どうもいつも話の中心にいて、しかも立ち位置も中心なのだ。女王様然としている。前者についていうと存在自体に華がない。つまり楽しそうではない。来月には存在していないかもしれない。  一方で一人で黙々と体を鍛えている御仁がいる。以前はランニングをしていたが、最近はもっぱら競歩のようだ。そのウエアが凝っていて、時たま目が点になることもある。ある時腕の下に羽根のようなものがついていて、これは舞台衣装かと思ったほどだった。ご当人も問題点を理解したらしく、その衣装は1日限りで終わった。鍛錬の効果があって、体脂肪率はシングルだとお見受けしている。

公園で ずっと一点 見据えてる 正装紳士 時を越えるか

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     歩くにしろ、佇むにしろ覇気のないボートした雰囲気を醸し出している人は、女性より男性が多いように思う。現状を正確に把握できず、過去に引きずられて過ごしているような印象だ。自分は昔どこどこの会社の課長だったとか、部長だったとかが自らを表現するほとんど全てという感じだ。しかし正確に言えば、現役の時もその当時の現状を正確に把握できていたのかは極めて訝しい。というのも彼らのいうことは須くステレオタイプなことが多いから。  退職後の今現状を正確に把握できていないということは、退職後突然そうなったのではなく、現役の時から自らを客観化できず、思い込みの世界の中に安穏としていたからである可能性が大きい。  常に思考しなければ、自らの置かれた正確な現状を正確に把握することは難しい。

楽しげに 会う人毎に 語る人 コンビニ巡り 所在なげに

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                                                                   ノイバラ     玉ねぎの生産不良で価格は昨年の倍になっているらしい。一杯に玉ねぎ一個を使うラーメン店では、コストが2割ほど上がり、価格維持が難しいとインタビューに答えていた。NHKは相変わらず店名を明示せずに報じていた。インタビューしておいてその名前を報じないなんてなんと失礼なことか。ご本人が望まないならまだしもその種の報道でそのようなことは聞いたことがない。  公共放送であるので、一企業に利益になるようなことはできない、と言う建前なのだろうが、こんなのは嘘っぱちだ。今流行りのMLBを見てご覧なさい。画面上日本向けのCMが溢れている。野球を放映しているだけで、その中にCMが紛れ込んでいるだけ、と言うかもしれないが、屁理屈極まれりだ。  いい加減偏頗な形式主義は排してほしい。

軽く歩く 木漏れ日の中 アスファルト マダラ模様 癒し催す

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                    セイヨウミヤコグサ   昭和20年代中盤の話。今から70年くらい前のことだ。場所はシベリアの強制収容所。そこのあるグループに日本人は一人だけだった。そのグループの警備隊長が不在時にソリの合わない警備隊員が独断で、何もするなとの隊長の指示を破って、その日本人に川を渡って対岸のボートを取ってくるようにと命じた。日本人はほぼ自発的に応じた。収容所はその川を渡るのは危険だとして、渡ることを厳に禁じていた。渡り始めて川の中央付近に来た時、その日本人の前に数発の弾丸が飛んできた。警備隊長が帰ってきて放ったものだった。川から上がってきた日本人は警備隊長に銃床で殴られた。脱走を試みたと判断され営倉に入れられた。その日本人も他の被収容者も警備隊員もその間の事情を隊長に話さなかったようだった。そのあと警備隊長が尋ねた。「お前はウクライナ人か。」ちなみに警備隊長はウクライナ人、警備員はロシア人。警備隊長が人種的にウクライナ人と判断するわけがない。心情的にお前はウクライナ人だ、と言ったわけだろう。では何がそう判断させたのか?命懸けの任務をほぼ自発的に行おうとしたことか?警備隊長に露見した後も一切言い訳しなかったことか?  

天狗茸 猛毒隠す 彪模様 雨の合間に 突如現る

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                                  立石寺   2019年はいろいろなことがあった。前半大杉谷、大峰山、山形に赴き、7月には福島県飯豊山で山岳遭難、その直後旧友が死去。  そして何よりコロナの前の普通の年の最後の年だった。やりたいと思うことは、なんでもできた。

野良猫を 手懐ける人 引きも切らず 人は苦手か 匂う風情かな

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                エニシダ(金雀枝)                   あれっと言う複数の人が薦めてくれた本がある。石原吉郎「望郷と海」だ。批判を許さない、と言う雰囲気の中での持ち出し方であった。何気なくペイジを捲り始めた。かような仕儀は正直初めてのことだ。読みながら賛同できる部分には棒線を、賛同できない部分には波線を入れ、それだけでは意を尽くせない部分は遠慮なく自分の言葉を書き込んでいった。  読書する時一方的に受容するのはいかがなものかと思い始めている。受けてそして発することが必要だ。  片言隻句をもって論じるのはやめておこう。通読した以降に感想を述べてみることにする。

無垢にして ものも見通し 情知る かくなる人の ツードゥ オア ノット

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                    マツバギク  作ってしばらくして改めて見てみると何をいってるのかわからないことがある。まさに散文ではない、字句の寄せ集めだから仕方がないと言えば仕方がない。でもしばらく眺めていると朧げながら浮かび上がってくるものもある。  「無垢」と言えばムイシュキンだろう。ドストエフスキーの長編「白痴」の主人公だ。混乱し荒んだ社会に純真無垢の人を置いたらどうなるだろうか、と言う発想のもとに作られた小説だ。  主人公はともかく置かれた社会は現状とあまり変わりがないのではとつい思ってしまった。侵略地から物資を奪って自宅に送る兵士、女子を陵辱して恥じない兵士、75年前に起こった日本人被害の事件と寸分違わないことが、今の世界でまた繰り返されてしまった。  ドストエフスキーは、実態を見抜いていたのではないか、ただ絶望はしなかった。白痴と呼ばれたムイシュキンもまた彼の地では少なくない存在なのだ。  離れた地の人との相互理解はいつもいつも難しい。

大阪は 見えない彼方 霞んでる 関空紀州 右淡路浮く

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                 ネムノキの若葉 開花近い   琵琶湖は一ヶ所から全てを見渡せることができる場所は、おそらく武奈ヶ岳をはじめとする比良連山であろう。つまり1000メートルくらいの標高を必要とする。ところが大阪湾においては、たとえば神戸の西の端垂水から四方八方を見渡すことができる。標高は10メートル以内だろう。これは関空においてもそうだろうし、和歌山の友ヶ島においても同様だろう。つまりとてもコンパクトにできていることと見渡すに障害物が少ないことが起因している。  出入り口は二ヶ所。南の西端の紀淡海峡(紀州と淡路の間)と西の北端の明石海峡だ。二つとも狭い水道だから、初めて見る人は湖だと思うだろう。    海流は明石海峡を西から東に流れている。これが結構早い海流で、垂水沖で泳いでいたら随分と東に持って行かれたことが何度もあった。明石鯛や明石蛸が身が締まって味が濃いと言われる所以だ。海流はそのまま神戸中心部、大阪中心部を舐めるように流れて友が島譜面に向かう。申し訳なく、気の毒でもあるのだが、阪神方面のゴミがこの辺りに流れ着く。  大阪湾を見ていてよく思うのは、淡路と和歌山が本当に近い。白浜や紀伊勝浦に行こうと思ったら、新大阪に出てそこで特急に乗り換えて、多分日本一遅い車窓を強いられる。山沿いをくねくね行くからスピードを上げれない。多分新宮か熊野だった。東京を一斉に出て各地に散るとする。どの公共交通機関を使おうと自由だ。沖縄の人が一風呂浴びている時、新宮か熊野の人はまだ車中で、到着は日本一遅かった。仮想ゲームの一つで東京からの距離ではなく時間を算出したものだ。理由ははっきりしている航空環境が悪いのだ。    話がそれた。そんな行きにくい紀州だが、淡路からは比較的近い。新たなルートが構築されるかも。

生まれては 死ぬの繰り返し 限りなく 問うことならず 外れるならず

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      石川啄木先生の、まず1000首作ったら、というアドバイスはとても適切だ。正確に言うなら四の五の言わずにどんどん作れだろう。多く作れば肩の力が抜けて、形にこだわらない、素直な自分を表現できます。それがつまらないものだったら、素材自体がつまらなかったと言うだけのこと。こことここを入れ替えて、この表現に変えて他の表現を探る、などの手法は全く愚の骨頂だ。本来の味を無くして、ありきたりなプロトタイプの駄作を増やすだけだ。  作品を作ったら何かに書き留めよう。そして添削は時に委ねよう。

忙しなく 吹き殴る風 森入れば ほっと一息 音 別世界

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                  コバンソウ                    何も考えなくても自然とランニングの足が向く場所があるのは幸せなことだ。行く場所自体の選定にストレスがないということは、出かける際のストレスのほとんどがないということに通じる。  一時期何人もの友人にランニングしてみたらと勧めてみたことがあった。私も勧められたことがきっかけだったから。ところが返ってきた言葉は、ほぼ同じで結構意外なものだった。つまり近場に走るところがない、ということだった。都会に住んでいる友人は、想定できるコースはやたらと信号が多くて走る気になれないといい、田舎に住んでいる友人は、畦道くらいしか走るところがなく、そこは走りにくいといった。  そういうやりとりを経ると、結構自分の置かれている環境は好ましいものかもしれないと思えるようになってきた。東に200メートル行けば、ボラがゆったり遊泳し、水鳥が遊ぶ川があり、南に300メートル行けばそこそこ大きな漁港がある。南東に500メートル行けば、樹木の生い茂った中に遊歩道があり、その先には水鳥の楽園とも言える池がある。南西に1キロ弱行けば、波の押し寄せる浜辺があり、その先には松の木と大橋の舞子公園が控えている。途中にはちょうどいい規模のアウトレットがある。  人とあまり出会いたくない時には南東に向かい、海に親しみたい時には南西に向かう。

見るからに 怖そうな顔 お気の毒 顔は自分で 作るとはいうも

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                    スイカズラ      スイカズラは、「吸い葛」と表記するが、中に甘い蜜があり、糖分の少なかった頃の子供らは見つけては吸っていたらしい。結構可憐上品な花を咲かせる。  可憐上品といえば、本ブログでも登場したことのあるノイバラだ。小さな花で薔薇とは思えないほど繊細だ。  森ではここのところ雑草刈りが行われているが、先日ノイバラがその対象となり、いつも見るのを楽しみにしていたところから取り払われていた。  物の価値の見定められない所業だ。

風に乗る 草刈りたての 匂いする 生の凄惨 つい顔背け

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                  クスダマツメクサ  この季節毎年公園では雑草整理が行われる。整理しないと見栄えも悪いし、よからぬ虫も這い出すかもしれない、防犯上の観点もあるかもしれない。  雑草を刈るとその匂いがする。この匂いには前からとても関心が強かった。好きでも嫌いでもないが、強いインパクトを感じるわけだ。   草を刈る むせ返る香に 顔背け 生の壮絶 圧倒される   草刈りの脇を通れば 匂い立つ 生の悦び 生の猥雑  多分感じているのは生命力そのものではないかと思う。

大雨に 激しい風の 続く中 沖出る舟の 行方目で追う

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                   NUMBERS~天才数学者の事件ファイルを毎日見ている。かなりの数学上の蘊蓄が含まれていて、脚本担当者は大変だなーと思っていたが、現実には多くの数学専門家が関与しているようだ。  従前の流れと関連していえば、最近の犯罪対策はプロファイリング技術の導入だが、本作はそのプロファイリングに数学を導入したということにある。例えば連続殺人事件が起こったとすると、その関連性に着目される。もちろん本作でもそれは同じだ。手法が異なる。  芝生に水を撒いている。水の出口は一つなのに、水飛沫は多方面に散らばっている。この散らばった先を殺人現場として、水の出口すなわち犯人の所在地を数式を立てて解明しようとするわけである。  水の自然現象と人間の犯罪行動が同じかどうか、同じでないならどの程度ずれるかは、あまり問題視されない。  現実の犯罪捜査ではいまだに警察官が闇雲に、忙しそうに走る回るイメージだから、何かの方向づけがあるだけでも、かなり改善されたと捉えられる。  結構高度な数学的知見が披露されるが、もちろんのこと視聴者が理解しているとは言い難い。だからいい加減な知見を振り回しているのではと勘繰りたくなるのだが、どっこいそれは違います、というのが、番組を長続きさせている。

雨後の ざわざわ風の 隙ついて のんびり一声 ウグイス放つ

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                 イヌコウリヤナギ                       今朝あたりはやっと青空がのぞいている。    優しげな 葉の風に揺れ ネムノキよ 花咲く時の 待ち遠しい    ふと気づく 何も詠まない 日もある 読まざるときは 満ち足りたとき    語数整理 決まり言葉の 羅列より 生きた言葉の みずみずしさよ

川よりの 流れし泥に 海染まる 雨 地を削り 雨 地を穿つ

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    今年はよく雨が降る。連日の雨に痺れを切らして、雨の中平磯緑地を散歩することにした。結構な降りで土砂降りに近いこともあった。見かけたランナーは一人、帽子もなく表情を変えず走っていた。欧米系の人だった。  烏と雀を見た。カラスは、高い街灯の上に雨も気にせず佇んでいた。苦行僧のようでもあった。スズメは電線に何尾かが「寒いね。」と言い合いながら止まっていた。  それにしても他の鳥たちはどうしてるのだろうか。慌ただしそうな気配を感じることもあった。  裂(はげし)く  傘打つ音  烟(けぶ)る視界  鳥悲鳴あげ  ひたすらに待つ

一呼吸 する間にストンと 意識絶つ 麻酔はいつも 死出の習いなり

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  啄木歌集から   へつらいを聞けば 腹立つわがこころ あまりに我を知るがかなしき   今日聞けば かの幸うすきやもめ人 きたなき恋に身を入るるてふ   実務には役に立たざるうた人と 我を見る人に 金借りにけり

海凪て 行き交う船も 軽やかに エンジン唸り 漁場に急ぐ

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   鯖の味噌煮を作ってみた。レシピ通りやっているのになんとなくうまくいってないという感じがして、酒を足して行ったが、できたものはやはりイマイチだった。鯛の蒸し料理にも挑戦してみたが、これは最も難しい調理法であることがわかっていたので、イマイチの出来にも対してもショックは受けなかった。  鯛のあら煮は、お店であれば必ず発注するメニューだが、調理してみようと思ったことはなかった。スーパーであらをパック売りしていた。かなりやすい値段がついていたので、つい買ってみた。結構簡単な料理で、出来上がりに十分満足したのだが、何せ油ぽいのには閉口した。(鯛を捌けば必ず出るあら、買う人が少ないから当然値段も安くなる。)  鰯の頭と内臓を除いたものを売っていたので、生姜と煮てみた。臭みが抜けず、小骨も気になり、食欲が失せた。  秋刀魚を買ってきて、開きにして、塩水につけ、一夜ベランダで干してみた。20匹を一度に処理したので、疲れもし、その辺りが油でギトギトした。しかしこれは美味かった。生の秋刀魚を焼くより、味が凝縮し、深みがあった。食べきれない分は冷凍にしたら、これが結構重宝した。  コープで鯵の開いたのを売っている。これを買ってフライにしたいと思っているが、一人での揚げ物は、後片付けの手間など考えると、イマイチ気が進まない。来月にでも奥さんが帰ってきたらチャレンジしたい。

曇天の 重苦しさや シャリンバイ トベラの花々 静かに誇る

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                   モッコスモドキ  ある女性誌の記事内容に感心している。有名人の惚れた腫れたについて興味本位で覗き見趣味満開かと思っていたら、必ずしもそうではなかった。深田恭子さんの記事においては、彼女の性格分析から、酒癖について話が及び、交際相手の誠意にもかかわらず、それに彼女が応じきれない苦境が語られ、渡辺裕之さんの死については、長年にわたる夫婦の苦境と支え合いに触れ、作り上げられたイメージから最悪の選択をせざるをえなかった事情が同世代の目線で、好意を持って語られ、文字通り自然な追悼文章となっていて、読書の気持ちにそっと寄り添っている。深田さんも渡辺さんのご遺族も納得される文章ではないかと推察される。その女性誌は、女性セブン最新号です。

拒んだは 何に拘り そうさせた 見えるものか そうでないものか

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                     フランスギク  「ダイイング・アイ」という日本の連続ドラマを観た。死亡する直前に発する目力には特別なものがあるという話。東野圭吾の原作らしい。奇想天外な筋書きのためなら無理は承知っていう作品。発行部数100万部を超えたというから言葉がない。ドラマ自体は、生瀬勝久くらいがリアリティを感じる。                一方NUMBERS~天才数学者の事件ファイル〜はアメリカのテレビドラマシリーズ。数学を使い難解事件を解明するという触れ込み。いかに現代社会が数学を基礎に成り立っているかを毎回教えてくれる。例えば車の電子ロック。実は全てのキーは同じ周波数が使われている。スイッチオンするとそのあたりの車のロックが全て解除されてしまわないかと心配になるが、そうはならない。その都度自動的に発信内容を変えているらしい。そうなると受け手の方が対応できないのではと思うが、あるアルゴニズムによってうまく処理されている。毎回この種の知見が数種紹介される。しかも事件解明にとって必要な場面で。いかに力の入った脚本であるかが解ろうというものだ。登場人物の造形にも苦心の跡が読み取れ、大満足の仕上がりになっている。

身も心も すっかり解れ 緩みがち 春を満喫 ぬる湯の世界

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   「刑事コロンボ」を見ていて気になるセリフがある。殺害された遺体のことを「仏さん」と呼ぶことだ。長年のことだから違和感を感じる人も少なくなったかもしれない。ところで土曜日に見た放映では、舞台は某アラブ系国の領事館。そこで殺人事件が起こるのだが、コロンボはまたも遺体を「仏さん」という。宗教感覚に神経質でない国ではまだしも、きわめて神経質とされる国関連の物語においてはいかがなものだろうか。

惚け友 共に登った 剱岳 代わって心配 されていたかも+ご報告

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   剱岳は長く憧れでもあり、恐る山でもあった。この機会を逃したらいけないと決めて、2016年9月に挑戦した。毎日3時間のトレーニングを1年間続けた。一層のことと難コース早月尾根コースを選んだ。入山二日目早月尾根小屋を朝5時に出た。チェックアウトは朝6時と書いてあった。この山の特色はともかく急坂で、一つ一つの岩が大きい。かなりの覚悟で最後の登りに挑んだ。高度計によるとあと100メートルと出た。ところがそこに頂上があった。二人の高度計が同じように間違っていたのだ。頂上の祠を目にして、1年間の努力を思い、最後はあっけなかったと、思わず目頭が滲んだ。  その頂上を早速下った。今度はお馴染みの別山尾根コースだ。直近山小屋で宿泊を断られ、やむなく思い足を引き摺って室堂に向かった。午後3時頃だったろうか。ふと後ろを振り返ると、劔が雲に包まれ始めていた。とっても遠いところにあるように見えた。  次は冬季に見えんと思ったが、実現はできないだろう。 ご報告   この1ヶ月の来訪者は。330名でした。累計は1560名。   ブログ名を「コロナの下の1000の歌」にしました。                                    以上

願うのは 見えた人だけ 100歳 誰も思わぬ 果てしなき空

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  クリント・イーストウッド監督の「ミリオンダラーベイビー」を観た。女性ボクサーのサクセスストーリだと思いつつも、この監督がそんな単純な映画を作るか、という疑問を抱きながら。  前半は確かにサクセスストーリー風であった。  ところが試合中に女性主人公が負傷し、半身不随となるあたりからガラッと呑気に見ておれなくなった。女性主人公が家族に見放され、絶望のあまり、殺してくれと男性主人公に懇願する事態となる。女性主人公は自ら舌を噛んで自殺を図る。  安楽死(殺)の深刻な問題が真正面から取り上げられるのだ。  男性主人公は悩むのだが、ぐだぐだ悩むことに焦点が当たることはない。この監督にそんな映画は似合わない。展開はとても早い。さっさと自分の解決策を見つけ、もちろん躊躇なく実行する。  これは娯楽の映画なんだよ。あとは自分で見つけろや。  他の作品同様訴えるものは軽くはない。  

縮みいく 世界の全て 刻々と 悲しみ飲み込む 勢い止まらず

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    世界は色々な方向に拡大縮小変化している。どの方向が本筋なのか誰にもそしていつも多分分からない。そう私たちはいつもオンザウエィなのだ。将来をいい方向に見据えるかそうでもない方向に見据えるか、という命題は、永遠の命題であり、金儲けの手段でもあり、人をたぶらかせる手段でもあり、これまでもそうだったし、これからもそうだろう。  唯一の真理は、ずっと翻弄され続けてきた、というところで、正直心寒いものがある。

キラキラと 煌めく波間 初夏の海 漂う小舟 溶けて消え入る

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   なんとも麗しい季節だろう。動けば多少汗ばむ程度。ところで「麗しい」と言えば、「麗しのサブリナ」を思い浮かべるが、昨日その一部を見た。さて前から抱いていたアメリカ映画の疑問がある。ヒロインは概ね若いのに、ヒーローはジジイが多いのだ。例えばこの映画のオードリー・ヘップバーンは25歳、一方相手役のウイリアム・ホールデンは37歳、ハンフリー・ボガードに至ってはなんと55歳。歳の差をテーマとして扱った映画ではなく、ただ単に恋愛映画なのだ。オードリーが溌剌としているのに、ボガードはヨタヨタだ。  この傾向は二十世紀中続いていたように思う。人生経験を経ていない20代までの男性は、重みに欠け、恋愛映画の主人公とは認識されていなかったようだ。

孫とマクド 百面相し ケラケラと ポテトばっかり 口いっぱい

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                    コデマリ  海の水も温み、浜辺に人も出るのんびりとした1日となりました。躑躅もほぼ満開状態。 芝生には幾張りかのテントが設営されていました。  海沿いのアウトレットも久しぶりに臨時の駐車場を解禁するほどの賑わいを見せました。 まるで何年か前のゴールデンウィークと見紛うほどです。

絵描けば 心落ち着く 満たされて 結果分からず 彷徨いつつ

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   「美味しんぼ」は長年にわたって愛読したコミックだ。筋立ての緻密さは、もちろん「クッキングパパ」や「レモンハート」とは比べ物にならないのみならず、伝える内容も使う語彙も感銘を受けることが多かった。  ところでその中の話で食前酒が話題になっていた。ウイスキーはどうかと言うことについて、作者は否定的な見解を示し、ルール違反みたいな趣旨のことを言ったように思う。  ところで最近晩酌にはウイスキーを飲んでいる。ストレートでショットグラス2杯。日本酒の燗酒のようにちびりちびりとやるわけ。これがとても気に入っている。貴重な液体という感覚がしてくる。  今のところ「美味しんぼ」に刃向かう唯一の例となった。  ちなみに飲んでいるのは「余市」です。   

肝心な 時に逃げるは 悪癖か 悔いても悔いても 直らずきた

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      アリナミンは薬効を実感できる薬の一つだが、テレビCMは、消費者の問いに対して企業側が答えるという体裁になっている。二つほどのバージョンを見たが、微妙に受け答えがずれている。  一つ目。「毎日飲み続けて問題ない?」これに対しして、誠実そうな男性が次のように答える。「成分に耐性が問題になるようなものはございません。」  多くの成分が入っていることだろう。その一つ一つに耐性が問題になるようなものがないことは重要ではある。しかし問題になっているのは、多くの成分が複合された製品について大丈夫かと聞いているのだ。それについては答えていない。化学品は混ぜることにより、新規の性質を取得することが当然に考えられる。元の材料が大丈夫だから加工品も大丈夫だとは言い切れない。  二つ目。「医薬品だけど毎日飲んで大丈夫?」上と同じような趣旨かと思われるが、この点に関して消費者の関心は高そうだ。同じく男性が答える。「効果が認められる限り、毎日お飲みいただけます。」  効果があるなら飲めばいい、効果がないのなら飲むのをやめたらいい、とごく当たり前のことを言うのみで、消費者の質問には正面からは答えていない。(間接的に大丈夫だから毎日飲んでくださいと言っている。)    質問と回答の間のこの微妙なずれは一体なんだろうか。質問と回答がピッタリ一致してしまうと当たり前すぎて、記憶に残り難いから、あえて違和感が残るように仕組んでいる可能性がある。もちろん何も考えず、出来上がったのがこれです、と言うことも考えられる。それにしても一つ目の解答はそれなりに答えようと言う姿勢が読み取れるが、二つ目に至っては、効果があると思うなら四の五の言わずに飲んでおけばいいと小馬鹿にしたような印象を受ける。