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6月, 2022の投稿を表示しています

水の照り 空澄み青く 浜煌めき 風途絶えつつ 空気ユラユラ

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        須磨からのJR山陽本線下りは、趣がある。海沿いの車内からは淡路が臨める。観音像はもう見えなくなったけれど、オカマ海岸は見える。この名前を初めて聞いたのは、グリルミヤコのママからだ。本当にそうなのかそうでないのかは知らない。オカマだとカミングアウトしている人は一人しか知らない。小学校の同級生だ。ダンス一筋だった。常に向いている方向は同じで確固としていた。何十年経っても教室での彼の表情は忘れられない。子供なのに大人のような存在感があった。小学校を出たあと何度か会った。あるときは喫茶店に勤めて、レッスンに通っていた。そのあとずっと経って彼がその世界で名を知られるようになっても、彼の表情は小学校の時そのものだった。

文豪の 寄せる思いは 祖国なり だらしなく粗野 救い求めて

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     連日の熱波が報道されるが、自分自身はそれほどのことは感じない。風呂に入ってもそうだ。以前は熱くてストレスを感じるような湯温でも今は平気で、むしろもっと熱くてもいいとさえ思えるほどだ。そういえばこんな光景を思い出す。昔大きなお風呂、例えば銭湯かゴルフ場の浴室で、年寄りがもっと熱くしろと叫んでいた。熱い風呂によく入れるなーと呆れていたが、これは熱センサーが劣化しているかららしい。熱いものを熱いと感じにくい。寒いのを寒いと感じにくい。とても危険なことだ。自然のセンサーを信じきれないから、補う必要がある。要はその類の機器類の知見を借りることになる。

しみじみと ウイスキーうまし そんな夕 フォアローゼズ 思い出募る

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                              クチナシ             最近はスピリッツに集中している。中でもウイスキーのシングルモルトだ。ショットグラスで1、2杯しみじみ味わう。酒の味わい方、酒に対する考え方が変わってきたように思う。  となると目障りなのが、酒棚にあるそれ以外の酒ということになる。槍玉に上がったのがバーボンのフォアローゼズだ。ほんの少し残っていたので、始末すべく飲んでみた。これが意外だった。とても芳醇で美味しかったのだ。昔大いに飲んだ酒が今でも美味いとは、とても喜ばしいこと。  少し年下の人と話した。以前よく一緒に飲んでいた人だ。気になる一言。「もう飲みません。」昔もそれほど飲んでいたという印象はない。年齢的にもこれから酒の味がわかる頃なのに、的を射ない人だなーと。

夏車内 ももひけらかす 若き女の 自然さにふと 昔の日想う

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   眠るネムノキ   目覚めたネムノキ             「カラマーゾフの兄弟」上中下のうち中巻まで読み進んだ。なぜか今までと異なり落ち着いて読める。今まではせっつかれるような、この名前は誰だっけと言った瑣末なことに囚われすぎていた。その上で一つ気にになったことを書いておこう。「白痴」などの作品でも同様なのだが、延々と続く神学論争についてだ。作者がとにかく好きなのだろうということはわかる。それはそれとして、この問題についていけないのなら彼の作品は理解できないのではという不安が常に存在する。これについては持ち越しとしたい。  今から取り上げる一つとは?神学論争つまり神は存在するのかしないのかという問題の前に、神とは何かについて定義付けないといけないのではと思うわけだ。大別すると二つだ。  一つは全知全能の創造主たる神だ。世の中のあらゆることを知り、それぞれについて何らかの判断をし、何らかの行動をとる。祈りの対象であり、語られる対象であり、時には非難の対象でもある。ある意味では人間的な存在だ。怒り、悲しみ、愛し、罰し、許し、何でもありだ。  もう一つは創造主たる神だ。つまりこの世界を創った。それは複雑にして精緻な造形物だ。そしてそれだけだ。関与はそれだけだ。あとは作られたものが自律的に動いているだけ。今更祈られても神としては、それは知りませんと言わざるを得ない。  ドストエフスキーは、全知全能の創造主たる神しか頭にないのではないか。単なる創造主としての神について考えが及んでいないのではないか?    

久々の 陽光眩し 夏の空 椋鳥騒ぎ 電線見上げ

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                    ギンバイカ  同定という作業がある。目の前にある樹木が、花が、本の中のどれに当たるかを確認する作業。手っ取り早く言えば、名前を探す作業だ。対象となる樹木の情報を集めるだけ集め、その情報を本の中の名前と照合する。今まで難儀したのは二つだ。シンジュとギンバイカ。  シンジュは何処にでもあった。生命力旺盛で何処にでも飛んでいって根付いた。成長の速さを見込まれたこともあるし、疎まれたこともある。例えば電線の下に植えたとすると、成長してすぐに電線を突き上げ弊害を生じた。場合によっては樹木部分が電線部分を巻き込んで成長してしまうということもあった。成長の早いが故に脆かった。ある時あまりに同定がうまくいかないものだから、街路樹としてある枝を取ってこようと考えた。思い切り跳んで枝先を掴んだら、かなりの量の枝部分がどさっと落ちてきた。通行人もいたし、これはまずいと妻と一目散に逃げたこともある。  一方ギンバイカはほとんど情報がなかった。存在したのは平磯緑地の東端の展望所だけ。  通常葉を調べる。大きさ。厚さ。鋸歯か全縁か。一斉に落葉するかバラバラに落葉するか。匂いはあるか。棘はあるか。次に花を調べる。花弁の色。雄蕊の色。花の大きさ。花の咲く時期。花の匂い。次に樹皮を見る。何か特色はあるか。場合によっては数年越しにわたって観察する。  わかる時はあっけない。シンジュの場合、大きな葉の下部に特色ある切れ込みがあることがわかった。ギンバイカの場合は、自力での同定を諦めた。全くお手上げだった。そこで頼ったのがITだ。スマホの有料アプリで撮影すると同定してくれるのを見つけて、試してみた。一瞬だった。

風煽る 自ずと足は 森の中 揺れる枝枝 ざわめく木の葉

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  関西は連日熱帯夜が続き、日本国中を熱波が襲う。最高気温四十度超えの方も見受けられる。そこで天変地異の趣かと言えば、そうでもない。コロナの印象が強くて、それに対抗するほどのインパクトは感じられない。そこでコロナ。減少しそうで減少しきれず、随分と息が長い。コロナといえばマスク。マスクの弊害が指摘され始めた。心理的な匿名性へのしぶとい希求説は、まあ置いといて、マスクのおかげで唾液量が減少し、そのため口内外に雑菌が蔓延る説など看過し得ない。公園のランナーたちは外している人が多いようだが、エレベーターに乗り合わせた時にマスク非着用の人がいると白い目で見られるとか、マダラ模様状況は、一斉マスク状況に比べて軋轢も多かろう。結局マスクの効用について確定的な知見は確立しないままで、「・・・・の可能性がある。」という曖昧説が多数説だ。

大荒れの 一夜が明けて 時止まる ディゴが散って 紅い絨毯

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                                                   昨日は久しぶりに強い風が吹いた。

烟る浜 そぼ降る雨の 中学生 端から端に 鞄抱えて

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                ムラサキクンシラン    雨の浜辺に人影はない。そこを一人の中学生が歩いていく。行手には浜辺しかない。つまり家はないのだ。雨でも一人で浜辺を歩きたかった。  浜辺は晴れた日にも風の強い日にも歩きたくなる場所である。大海に通ずる水があり、なぜか動いている。  車窓からその中学生を眺めている。時空を超えて、自らを眺めているようだ。

女ひとり 猫愛おしむ 幸薄げ 梅雨合間 人情噺

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         慈しみ 森の猫寝る 初夏の風 笑み蓄えて 都合いい愛    平磯緑地には多くの野良猫がいて、多くの支援者がいる。特定の猫と特定の支援者が結びついているかのようだ。家で飼えない事情もあるかもしれない。ある支援者が家を出れなくなったら、猫はどうなるのだろうか。飼い猫であっても事情は同じだという意見もある。  雨の激しいとき、猫はどこで避けているのだろうか。またいっとき鶏が生息していた。そしてある頃から突然いなくなった。野良猫に食べられたのだろうか。野良猫はいるのに、野良犬はいない。野良犬は駆逐されているからいないのか。  森の中にも謎はある。  

ツバメ飛ぶ 鋭く描く その軌跡 鮮やかぶりに 思わず見惚れ

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   高校卒業時にはおおむね卒業文集が編まれる。我が母校もそうだった。しかしこの文集には私の名前の文章は載っていても、私の文章は載っていない。友人たちに唯一認められた能力が文才で,校誌に6年連続で詩作が掲載され、20歳代初めに同人誌も出したのに。  私の名前で載せたのはO君で、大学卒業後新聞記者になった人だ。もちろん私も了解の上でのおふざけなのだが、どのような意味があるのか、どのような趣旨なのか、どのようなオチがあるのか、O君はその後関連のテレビ会社の社長になり、比較的早く亡くなったこともあり、今となっては知りようがない。  大学1年生の時にクラスの男女が福岡に駆け落ちしたことがあった。二人は大学に来なくなり、その後の音信も一切私には絶えた。学生運動のあるセクトに二人は属し、学内では孤立しつつあった。その前男子学生の方のマンションを訪ねたが、いくら呼び鈴を押しても出てこなかった。軽い気持ちで郵便受けから内部を伺ったら、誰かが声を顰めて体勢を低くしていた。尋常でない雰囲気を感じた。ピンときたのは警察に追われている人間を男子学生が匿っているということだ。  駆け落ちの前日(駆け落ちは後日知った。)我々は年始の挨拶に恩師宅を訪ねていた。いつもいないメンバーがそこにはいた。その女子学生だ。飲み食いしたのだが翌日駆け落ちするとは微塵も感じなかった。後日駆け落ちしたことを知って、思わずえっと発し、かつ動揺した。  それにしてもなぜ駆け落ちという形式が必要だったのだろうか。結婚して夫の実家の福岡に住む、ということで良かったのではないか。二人がいなくなってから、関連の情報が一切入ってこなくて、推測も叶わなかった。  40年経った頃噂でその女子学生(今はおばさんか、お婆さん)が実家に戻ったときいた。  長い人生、思い返せば一体あれは何だったんだということが、その気になればいくらか出てくる。

梅雨合間 いつ降り出しても 不思議なし 渡る微風 不穏さ潜め

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                     チガヤ  70%前後の湿度がある。それを確かめるだけでも湿っぽくなる。土曜参観で休日扱いとなった昨日、孫にせがまれてバッティングセンターに行った。予想通り客はゼロ。ロビーはクーラーが効いているが、バッティングする場所は空調なし。まるで蒸し風呂だった。

週末に きっと逢えると 夢の中 あとは幻 時は尽きない

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                       アジサイ        カラマーゾフの兄弟第2部第4編『病的な興奮」の7「すがすがしい大気の中でも」  ある退役将校の話。妻は狂人、娘たちは不具者。酒場で飲んだくれてその結果、主人公の兄に屈辱的な暴行を受ける。それ以来その将校の息子は学校で壮絶なるいじめに遭う。元々極貧で生活は苦しく、娘たちの治療費も工面できない。八方塞がりの状況にある。主人公は見舞金を預かってこの将校に届ける役目を担う。時間を弄して心が通じやっと見舞金を受け取ってくれたと思ったが、最後の最後で返されてしまう。  話としてはざっとこんなものだが、話の進展にひたすら引き込まれる。ロシアの市井の人の誇り高差に驚かされる、という面はあるが、この引き込まれる理由は、判然とはしない。個々人のではなく、誇りそのものを論じていることに、興味を強く引かれているのではないだろうか。  目次のこの箇所には◯印が書かれている。毎回感銘を受けていることに。              

ムイシュキン かもしれないと 呟(つぶや)いた ドラマ仕立ての あのキャンパス

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                  コブシ  半世紀前の大学は何でもありの無法地帯だった。過激派学生組織の中堅幹部が、大学にあじりにくる。単純な内容で、聞いていてもおかしくなる。その時の言葉は、「お前らはスーパーマンだ。」その言葉に触発されて、反対派学生が角材で頭を殴られて出血っていう具合。刑事事件として扱われたと聞いたことがない。殴られる学生組織は決まっていて、反撃したことは多分ない。ある時、大阪空港近辺にある軍需産業目指してデモをかけるという名目で、近辺の大学に過激派学生が集結したことがあった。当の大学からすれば、得体の知れない他大学の学生が大勢集まってくることに。その意を受けたのか受けてないのか定かでないが、一般学生と称する学生たちがこれも集結して、進駐してきた学生を追い出そうとする。真夜中進駐してきた学生たちが大講堂に集まり、その周りを一般学生と称する一団が何重にも取り囲み、一晩中「出ていけ」のシュプレヒコールを繰り返す。このように記述すると結構緊迫した雰囲気が漂う。  出入り口はどうなっているのか興味が湧く。完全に封鎖されているのか?  その心は、甲子園球場で開催されるプロ野球のイニング8回の出入り口と解く。プロ野球ではもちろんチケットがなければ入れないから出入り口には監視人がいる。しかしイニング数が後半に入ると、その頃に来る客なんていないとして、監視人は立ち去り、入出場フリーになるのだ。つまりこの場合も入出場は自由なのだ。だから出たり入ったりしている人物もいる。その近辺は、シュプレヒコール舞う所と違って、楽屋裏という雰囲気で、屋台なんか出ていてもおかしくはない。  中はどんな雰囲気かというと、結構普通なのだ。本来なら中にいる人数の何倍かの人間が集まって、大声を張り上げているわけだ。実力で踏み込まれたらどうなる?とは誰も考えない。何せ囲ってるのは良識ある一般学生で実力行使はないと踏んでいるわけ。それでも長時間囲まれると意気も下がってくる。そこで時折特攻隊の募集がある。囲みに向かって4列縦隊で突撃するのだ。多分お祭りの神輿のぶつかり合いに似ている。  こんなことがいろいろあって、ある時機動隊が学内に進駐した。学内は催涙ガスで霞んでいた。それまでの秩序が粉々に砕かれた。偉い学長さんが馬鹿者呼ばわりされ、そこらへんの教授も何の権威も持たなくなった。これらの過程で

目の覚める 度の重なる 深夜闇 同じ悔いごと 何度繰り返す

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  世の中を二分する話法があって、その限りはないが、その中に「カラマーゾフの兄弟」を読んだことのある人と読んだことのない人、というのがある。それはともかく、仕事から引いて時間ができたのなら、じっくり構えてこの本を読んでみたらというアドバイスが、ある雑誌に掲載され、なぜか素直に納得できた。そこで読み始めたのだが、今までと違って、なぜか楽しい。特に気に入っているのが、リザヴェータ・スメルジャーシチャヤの部分だ。白痴のこじき同然の娘なのだが、これが地域社会に愛されて、生活できているという箇所だ。何度も読み返してみた。そこにはロシア社会の底知れぬ力強さがあるようなのだ。最近喧伝されているロシア兵の暴虐ぶりとは全く馴染めない。こんなふうに今のロシアと対比させるような感覚で読んでいる。それが正しいのか正しくないのか。これには全く興味がない。

夫 先 妻追う散歩 羨ましい 重ねる年輪 ワープ叶わず

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                     ソテツ     円安が進み物価が上がる。庶民の生活は大変なんですと、ニュースショウのMCがしたり顔で訴える。庶民は大変だよ、確かに。でもあなたは庶民なのか?数億円のギャラをもらっているような庶民はないだろう。庶民でもないのに庶民顔して、庶民は大変だよなー、というのりなんだ。これはMCだけに限らない、コメンテーターも、アナも。要は社会の上部に位置する人は、これらの物価云々はどうでもいい話題で、単なるネタとして扱っているのにすぎない。庶民はまず現実として物価高によって被害を受け、その被害に塩を塗っているのが彼らマスコミなのだ。  この構造は今も昔も変わらない。  舞台における黒子の存在は、存在しているけれど存在していないものとして扱う約束事だ。これと同じように、キャスターがさも生活が大変そうに訴えるのは、まさに芝居であって、それを今更芝居だというのは、野暮の極みなのか。同じように政治家がさも庶民であるかのように振る舞うのを嘘だというのはやっぱり野暮か。世の中で目立っている人は全て勝者で、その中で弱者を装う人もいるということか。  本当に弱者の痛みを訴える人は今の世の中にはいない。それではガス抜きができないから、強者の中から選ばれた弱者役が精一杯演じている。要は芝居なのだ。ところが昔はいた。貧乏人は麦飯を食えって、いう人が。つまり俺は苦労して今の地位にいる、だから白米を食う。ろくには働かない人、働いてもうだつが上がらない貧乏人は麦飯を食え。俺は庶民じゃないが、お前ら庶民は大変だなー、というスタンスだ。健全にして明快な保守主義というべきだろう。  なぜこういう発言ができなくなってきたのか。結構重いテーマに行き着きかねない。

そぞろ歩く 雨の合間の 浜辺来て 整備の工事 キャタピラ動く

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                    ディゴ  やや湿り気を帯びるとはいえ、心地よい風の渡る午後、足は自然と浜辺に向かう。海はコンクリでも売ったように真っ平ら。浜辺の育成工事をしている。砂をどんどん補充しているようだ。波によってどんどん侵食されているから、それに対抗している。キャタピラの運搬車の横で親子連れがシートを引いてくつろいでいる。

つらつらと 思い返せば つくづくと 行き届かない 所行重ねて

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   どうしても3時間ほど潰さなくてはならない仕儀になり、1時間は書店と決め、後はアウトレットにする。若者と同じくらい老人もいる世界だが、若者の購買活動が活発な割に老人のそれはパッとしない。懐具合が違うのかと思えば、むしろ逆で持っているのは老人側だ。考えた結果の結論は次のようなものだ。つまり買い物は無駄である。買ったものの9割は本来の役割を果たすことなく廃棄される。老人は長く生きていたおかげで多くの買い物をし、そして多くの失敗を重ねてきた。つまり具体的現実的に買い物をしなくても、その失敗を見通すことができ、わざわざ現実に買い物をしなくてもいいというわけだ。  老人とは多くの失敗を重ねてきた人なのだ。

野良猫に 与えた餌の 食べ残し 必死さ微塵も そこに感じず

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                     週刊プレイボーイ連載の「リリーフランキーの人生相談」は、毎週必ず拝見している。肩の力が抜けていて、しかも的を射た対応はしみじみ感心させられる。さて今週の相談は?  顔も名前も知らない男性とSNSで長年「文通」をしているという女性。その彼と会うべきかどうか悩んでいるという、のが相談内容。  どう答えるべきだろうか?(正解?は、週プレ参照)

雨の香の ぬる優しさに 絆(ほだ)されて も一度前に 歩み出だす

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                 ネムノキ咲いた  通信ネット料金の二重払いを強いられた件で、通信会社とカード会社に書面を作った。話は単純で、カード会社は支払ったといい、通信会社は支払ってもらってないという。結局消費者たる当方が二重払いという仕儀に。通信会社のHPを見ると二重払いはあり得ないと言い放つ。チャットで事情を説明するも、想定外の会話なのか、全く噛み合わず、イライラだけが募る。このまま時間が過ぎれば、怒りも収まり、何事もなかったようになってしまいそうだったので、思い切って文章にまとめてみた。一旦作成し、寝かせ、また手を入れるという作業を繰り返したら、結構わかりやすい文章が出来上がった。内容証明郵便にしようかと思ったが、既に経費も使っており、このままでは回収しても持出になりそうなので、特定記録扱いで手を打つ。該当金額は金5000円超、専門家に頼むとこの10倍くらいはかかりそう。国民生活センターとかいうところに行くのかなー。

長年の 婦唱夫随の ランニング 案の定今 妻単独走

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                  ドクダミ     流行りのランニングウエアを纏い、妻は本格的なやや前屈の走行姿勢で、夫は反り返り気味のガニ股間抜け面で、妻が先導して1日かなりの距離を走っていたと思われる。近所でも話題になっていたのではと推測される。妻はなぜあの夫の滑稽な走法を注意しないのか、と見るたびに思いを抱いていた。  気がついたら妻は一人で走っていて、それは様になっていた。

刈らる草 咽せる匂いぞ 悍(おぞ)ましき 内情明かされ 戸惑うごとし

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                                                             サフランモドキ                                                        トルコ料理店に行ってみた。PERA Meze & Grill。垂水駅前にある。イタリアンにしてもフレンチにしても、前菜盛り合わせが好みだが、長らく接していなかった。そこでメゼ盛り合わせを頼む。5、6枚の小皿にトルコ風ラタトゥイや豆類のサラダが並ぶ。パンもついていて好都合。味には違和感が全くない。ラムチョップとトルコ風ミートボールは、ごく当たり前でコメントなし。  グラスワインの白は惚れ惚れするような色ではあったが、冷えてもなく味も鈍重な感じ。トルコ特有の葡萄の蒸留酒ラクは、水で割ってもストレートでもイマイチだった。ジンを頼んだら大ぶりのチューリップグラスで出てきたのには失笑した。  次に行くときには、もう少しトルコ料理の個性が表現されているものを頼むつもり。  垂水で育ってくれることを祈っている。そのためには協力したい。ご主人のやる気が見られないのが残念。

更に老い 更にヨタヨタ 山の友 外歩き出来ず ウイスキー舐め

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オトギリソウ  月に一度友人に会うことにしているが、やはりウイスキーがいる。ところがジャパニーズウイスキーの評価が高くなって、シングルモルトはなかなか手に入らない。先日も成城石井が「山崎」の予約抽選販売を行なったくらいだ。これには予想通り漏れた。  いつでも手に入るシングルモルトといえば、「知多」か「明石」だが、「知多」は軽やかで独特の風味があり、「明石」は神戸のバーでも褒めるオーソドックスな逸品だ。  スコッチにおいては、グレンフィデック、ラフロイグ、グレンリベットそこそこの酒屋に行けば手に入る。マイルドからガツン系まで自由自在だ。  じゃそれでいいのではというと少し違う。微細な違いを認識するのが楽しみなのだ。今はジャパニーズウイスキーのシングルモルトの口なのだ。「山崎」「白州」「響」あたりが狙いだ。    

久々に 空高くして 晴れ渡る 橋の向こうに 小豆島霞む

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                                                          アジュール舞子より     浜辺では素足を水につけて走り回っている人、ビキニ姿で日光浴を楽しんでいる若い女性、それをチラ見しているブラブラ歩きのお父さん。木陰ではキャンピングチェアーに座り、じっと瞑想に浸る中高年。風邪涼やかにして、陽は暖かく、と言って暑くはない。  この先をずっと進めば小さなホテルがある。売りは景観。そしてそこでのウェディングセレモニー。北向きの玄関の左右には白い可憐な花の咲くキョウチクトウが植えられている。ホテルの外壁も白で、青い海との対比が鮮烈。

騒がし 雨落つ前の 鳥の衆 不気味な予感 心乱すや+ご報告

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                  西穂のピーク   西穂は、旧友が遭難死した山だ。山登りのきっかけを作ってくれた。高校1年生の時、いきなり六甲山全山縦走へのお誘いだ。表向き58キロ。大袈裟に言いたいのだろう。実際は40キロくらいだろうか。大学入学には3浪した。大学進学を弟に越されたようなこともあった。そんな悲哀を認めた母親のエッセイが新聞に掲載されたこともあった。  浪人中は京都に下宿していた。何度か訪れたことがあった。もともと裕福な医者の子息であったが、そんな彼に金をせびるにくる友人もあったらしい。高校の同級生だから、顔くらいは知っている。興味があったので対応を聞いてみた。飯屋に連れて行って、腹一杯食わせて、それで帰ってもらうと、いった。感心もし、呆れもした。  松岡修造ばりにガッツのある人だったが、頭は良くなかった、ただ裏表のない性格で、人には安心感を与えた。大学教授になり、学会の会長までになった。多分知人の中の出世頭だろう。  西穂山荘に下ってくる途中で上高地側に滑落した。  高校時代は山で死にたいとは言っていたが、そんな話を聞いても、家族は慰められないだろう。 ご報告 この1ヶ月間の来訪者は、405名でした。累計は1965名。 renbai-marketが取り壊されることになりました。ちなんだ名前にブログ名を変更予定です。     

梅雨気味の 模様押して 駆け出せば お愛想程度の お湿り迎え

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                  ケシの花     大雨がくるぞ。大風が吹くぞ。さんざん囃し立てられたのに、実際はほんの僅かの雨が落ちたくらいで、いつも通りスロージョッギングを敢行した。ネムノキも開花に至らず、これといって関心を引くこともなかった。  エンジェルスは11連敗を喫した。終盤まで6対2できたのに、イグレシアスが満塁ホームランを喰らった。この人はセーブを上げた時に、天に一本指を突き刺して、俺が一番だとアッピールする、謙譲の美徳のかけらもない人だが、今は病み上がりみたいに頼りなさげだ。その後9回表にエンジェルスは虎の子の一点をもぎ取って、これで連敗脱出と喜んだのに、その裏サヨナラ3ランを打たれてしまった。  大谷くんもやることなすことチグハグで、当然ながら笑顔もない。  

松の木の 下を潜って 風渡る 初夏の息吹 撒き散らしつつ

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    書棚には、長年読まれることもなく、捨て去られるのを待つような本もある。その中の一冊が次の本。    北朝鮮・中国はどれだけ恐いか 田岡俊次著 2007年発行  捨てる前に一読を試みたが、意外に教えられることがあった。今風に置き換えて披露しよう。  「北朝鮮はミサイル実験核実験を欠かさない。それはなぜなのか?  北朝鮮の身になって考えてみよう。南に韓国があり、GDP比は11倍、その南の台湾は5倍、日本は34倍、それらの後ろに控えるアメリカは143倍、ちなみに中国は105倍。地域1の貧乏国なのだ。妬み、イジケは仕方がない。問題なのはもっと実質的なことだ。長年の経済力の差によって、通常兵器でダントツの差が生じているのだ。2000年の初期の段階でろくな航空機も、潜水艦も、戦車もなかった。日本から見るとそんな国に攻め込む国なんてあるのかとさえ思えるが、実はある。韓国は、常に統一シナリオを備えていると言われる。実際にあるかないかは判然としないが、隣国としては最悪事態を想定するのは当然であろう。  金はない。しかし攻撃は想定すべきだ。となると考えられるのは、核兵器、生物兵器、化学兵器しかあり得ない。」  北朝鮮がミサイル実験をするたびに、核実験をするたびに、何故だ何故だを繰り返すだけで、腹立たしい思いばかり募らせるより、かような分析の方がよほど精神衛生上好ましいものだ。少なくとも国家運営上合理的な判断に基づいて行われているというのは、多少なりとも気が鎮まるのではないか。  こういった知見を田岡氏は与えてくれた。この本もしばらくこのまま置いておくか。

胡蝶蘭 一冬越して 花咲す 誉めそやす人 一もつありて

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                ブラシノキ(ポルトバザール)  この時期ブラシノキは、舞子公園界隈で見かける。ホテルセトレの南に、ポルトバザールの西出口、JR舞子駅。英名bottle  brush。原産国オーストラリア。  赤色の他、白、ピンクのものもあるらしい。実際にブラシとして使えるかどうかは不明。

じっくりと 今語りたき 人ありて 叶わぬ定めと あきらむべきや

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                                                            ネムノキ開花間近  朝のランニングの終わり頃、帰りにコープに寄って行こうと思って、ウエストポーチのコーピークレジットカードを確かめたら、あるべきはずのものがない。自宅に忘れたかと一旦自宅に戻るも、やはりない。やむなくコープの店舗に行き紛失を届ける。ただそこでは処理できず、カード発行会社に連絡してほしとのこと。  とりあえず発行会社にアクセスし、紛失並びに機能停止、再発行の手続きをとる。そこで二つの指示。コープ本部への届けと警察への届け。コープ本部はカード発行会社へ届けてくれという要領を得ない対応。時間と有料電話代金の無駄。警察に届けを出して、とりあえずできることは終えたとホッとする。  余裕ができて、もう一度ランニングコースをチェックしようと思いついた。さっき行ったコースを辿る。東端の展望所を折り返して、ふと足先を見ると枯れ葉の上にカードが裏返しになっていた。  カード紛失劇の終わり。   

酒を飲む 海峡にわかに 咽び出す 構っちゃおれない 箸を動かす

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              泉国際カントリークラブの新緑  海峡の向こうに横たわる島は、穏やかな風貌のありきたりな山々を備えている。そのように見えるが、実はその奥には黒々とした山塊が控えている。初めてみるといつもと違う山相にえっと目を見張る。垂水に掖斎海病院という病院があり、週に何度か通っていたことがあったが、帰りは歩いて帰っていた。自宅に戻るには垂水で一番高いところを越えていく必要がある。そしてそこから見ると対岸の島は、穏やかな姿の後ろに恐ろしい形相を隠していたわけだ。  鉢伏山は六甲山系の一番西端の山だ(須磨浦ロープウエイが設置されている。)。隣の旗振り山と並んで西側の住民にはこじんまりした凡庸な姿を見せている。鉢伏山から旗振り山、鉄拐山、栂尾山、横尾山、鷹取山、菊水山、鍋蓋山、摩耶山と続き、六甲山全山縦走のコースとなる。この二山は、神戸市街と垂水をくっきりと分けている。一つは気象面。垂水で雪が降り、風が吹いても、元町では何もなかったということが何度もあった。二山は神戸市街を西風から防御している。二つ目は文化的な面。垂水は神戸の一部というより、西の地域に属しているように感じられる。その昔摂津国と播磨国の境は旗振り山であった。このようなことは、それはそれとして、以前淡路島の花桟敷公園から神戸を望んだことがあった。いつもは岩屋か淡路サービスエリアから神戸を見るのだが、同じ標高からか見慣れている光景と変わらなかった。ところが花桟敷公園は標高がある。そこから鉢伏、旗振り両山を見るといつもと違う光景が広がっていた、黒々と大きな山塊が控えていたのだ。恐ろしさを感じた。六甲連山ってあんなに大きかったんだ。  山塊の概念を意識したのは、八ヶ岳の赤岳に行ったときだ。「この山塊は小さい。」

様子問う ハガキ凝ったが 返りなし 思わぬ不安 先立たぬ悔い

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  初めてカザフスタン映画を見た。「女王トミュリス 史上最強の戦士」この女王は美しくそして強いという。この女王がペルシャ王キュロスを打ち破るという話。長い映画だが飽きずに見ることができた。そして何より特筆すべきなのが、この女王の台詞回しだ。太く強い言葉。一語一句明瞭に話す。美しき女性が蛮族を率いる違和感を少しでも拭おうと、話し方に工夫を凝らしたのだろうとは思うが、それにしても目を見張るような話法であった。映画は一つでもキラリと光るところがあれば覚えてもらえる。